2022つながる「出雲街道」を歩こう会(最終回)
2022年10月23日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第6弾(最終回)として、福力神社附近より津山(津山市役所)までを、東から西へと主催者の「勝間田宿の会」と共催で、「城東まちづくりの会」と「勝山宿の会」で歩きます。
「勝山宿の会」では平成24年より、真庭市内の「出雲街道(7回)・大山みちを歩こう会(6回)」を踏破して、国交省より「夢街道ルネサンス」に認定され「つながる出雲街道」と命名され、東部(美作市・勝央町・津山市)に活動の場を求めて、歩こう会を開催し、記念すべき第6弾の最終回を迎える事が出来ました。
特別企画(第6弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第4区)
福力(福力荒神社附近)~津山(市役所)間7.5km(実質8.0km)
主催:出雲街道 勝間田宿の会、共催:城東まちづくり協議会(津山市)、共催:出雲街道勝山宿の会
協力:津山観光ボランティアガイドの会、助成:(一社)中国建設弘済会
集合は津山市役所駐車場
福力荒神社・供養塚(福力)
ここは第1弾で取り扱ったので省略するが、まむし除けと安産で有名であり、旧正月の賑わいは特筆に値する。大崎駅通りの街道角に、念仏供養塚が建っている。
念仏供養塚・石仏群・一里塚跡
左手に石仏群、右手に一里塚跡がある(一里塚跡は古絵図に照合して距織が合わない)
地蔵堂
町並みを西に行くと、左手に地蔵堂がある。足腰に霊験があると言われ、ぞうりが供えてある。献燈には「天保12年」と刻んであり、光伯地蔵堂と言われている。向かいや近辺には、供養塚が点在している。
夜啼地蔵堂
少し行くと、右手に祠があり、地蔵が祀ってある。夜啼地蔵と言う。
芭蕉句碑
街道と現国道の合流点に小公園があり、松尾芭蕉の「ものいえば唇寒し秋の風」と文政10年10月 鬼角建之と刻まれている。
芭蕉句碑
更に北に向かい進んでいくと題目石(供養塔)・念仏供養塚がある
河辺の坂の入り口附近に、念仏供養塔(題目石 目通り、0.3m高、さ2.9m+0.05m)があり、明治13年5月の銘が刻んである。並んで念仏供養塚がある。
河辺(旧上之町)東桝形
坂道を登れば河辺の町並みとなり、道の両端に石積みで桝形を造り、防衛の役割を果たしている。
町並みの右手の中央附近に長屋門のある家が、大庄屋土居家の宅跡で、領主が通ったときには、休息したと伝わっている。
道しるべ常夜燈
「従是長尾山二里 従是左八幡道」と刻まれた道しるべがある。道の向かいには常夜燈が鎮座している。
古民家・西桝形
右手の古民家は大庄屋の跡地である。町並みの西方には守りを固めた、石造の桝形がある。
道しるべ石
桝形附近に国分寺に分岐する道しるべがあり「従是国分寺道五」余、安永四年十二月 現住恵澄造建立之」と記してある。
出雲街道のうち河邊村 文久2年(1862)の略絵図面 寄贈:末澤敏男
お世話くださった「津山観光ボランティアの会 末澤敏男さん」
昼食は河辺公会堂にて
念仏供養塔・役行者大菩薩
坂を下る途中に「念仏供養塔」と「役行者大菩薩」が、並んで立っている。
地蔵堂
坂道を下って姫新線の踏み切りを越えると、小さな地蔵堂が祀られている。
兼田橋
加茂川に架かる兼田橋の手前に、光明真言供養塔がある。橋を渡って少し離れて千人塚がある。「三界萬霊塔」があり、処刑場に近辺の河原が当てられ、多数の霊を弔うため、千人塚と呼ばれるようになった。
堤防上にも文政十年(1827)建立の地蔵と、安政十年(1781)建立の右国分寺道と刻まれた道標があるが、道路河川改修等で移設されたものと思われる。
道しるべ石
兼田橋西詰めには、作州三大古い道しるべの一つがあり、高さは2m位あり威容を誇っている、「右播州ひめじ二十一里 信州善光寺百五十五里 左津山大はし三十」道 左いなば鳥取八里半 高円ぼだいじ六里道」さらに「もろ人に此よの道ハをしふれど、さき世まではわからざりけり」と刻んである。
塞神社・念仏供養塔・六地蔵
兼田橋より、1kmばかり歩けば塞の神と、念仏供養塔があり、隣には六地蔵がある。
因幡道しるべ・大日如来・馬頭観音・石仏群
三差路に至ると、因幡道との分岐点になり、津山市玉淋である。元禄二年(1689)建立の道標をはじめ、三界萬霊碑、六十六部回国碑、馬頭観音、大日如来、地蔵等沢山の石碑群が存在する。
大隅宮参道
側には大隅神社参道がある。
旧洋学資料館(東松原)
高砂橋を過ぎると、洋学の資料が豊富に展示してある、旧津山洋学資料館がある。このあたりを東松原と言い、昔は松林があったと伝わっている。現在城東地区の東新町、西新町、中之町、勝間田町、林田町、橋本町等の街道沿いの町並みは江戸時代より、昭和初期の町家の建物が保存され、重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)の指定を受け、大切に後世に伝承されている。
荒神曲
400m程歩くと大曲に出会う。荒神曲といい、城下町に多く見られる、敵襲を防御するためで、見通しを悪くし、また、伏勢を置き侵入を防ぐものである。
瓦屋小路・東美濃屋小路
家の間の小道で、ここを最初に14箇所があり、南北に向かっていて、それぞれ言い伝えがあり、物語があるものと想像される。
むかし町屋(1)・洋学資料館(2)
(1)国の登録有形文化財となっていて、豪商旧梶村家住宅で、間口31.5m、奥行34mの土地に母屋や離れ座敷、土蔵洋館が建ち、池を配した庭園には、茶室もある。
(2)宇田川家や箕作家の、津山ゆかりの洋学者たちの業績を、資料と復元模型やパネルを用いて紹介してある。
東新町と西新町の境界付近に、洋学者箕作院甫の生家がある。院甫は14歳まで西新町に住み、激動する幕末にあって洋学の翻訳をしたり、通訳として外交に活躍した人物であり、生家は国史跡となっている。
札場小路・藺田小路・福田屋小路。松木小路・長柄小路・栴檀小路・関貫小路・国信小路
小路の名前の石碑が、建立されている。
■石敢當
丁字路の突き当たり等、辻々に設けられる。魔除けの石碑と言われている。
中国で発祥したもので、日本では沖縄地方や、鹿児島県に分布する。
お接待に自家製のぶどうと甘酒をいただきました。
それに新庄村のお米「出雲街道 結び米」もいただきました。
■美濃屋小路・西美濃屋小路/ここで小路の石碑は、終わりを告げている。
■宮川大橋
橋本町は宮川の東岸で、大きく鍵形に屈折しており、城下町の防備を偲ばせる街道となっている。
宮川は上横野奥谷を水源にし、3里(12㎞)を経て大橋に至る、川幅を24間に定め橋長を決め、津山城が完成する頃、現在位置に架設された。
■東番所跡
大橋西詰めに出雲街道 大番所跡がある、津山藩では延宝6年(1678)に、経路を変えて城下を通行させ、東西に番所を設け、役人を常駐させ往来の取り締まりをさせた。
■金刀比羅宮(京町)
街道を右に折れたところに、小さい鳥居が見え、金刀比羅宮と記してある。鳥居の左 燈籠には奉献文政十三年(1830)十月、右の献籠には天保五年(1834)十月と刻んである。
■【津山宿(城下町)】
古代より出雲と大和朝廷を結ぶ道は、尊要な路線として開けていましたが、街道としての整備が整ったので、和銅6年(713) 吉備より分離され、美作の国として独立し、以来 津山は国分寺を有し、美作の中心地として栄えてきました。街道は多少の変遷を重ねてはおりますが、播磨より県内に入るには、杉坂峠を通る道が古道でした。この道に変化が起こるのは、慶長8年(1603)森忠政が藩主となり、入国以来であり、江戸幕府の命で始まった参勤交代のため、街道の整備に当たらせたもので、当所は出雲往来、出雲往還と呼ばれ、近代になり全国的に街道と、呼び名が続―されて、出雲街道と呼ばれるようになった。
慶長8年2月 美作の国18万6500石の所領を授かった、森忠政は3月に院庄の構城跡に館を築き、城の選定を急ぎ、最終地として 「鶴山」と決め、吉井川と宮川を見下ろす鶴山を城地と定め、土地名称を「津山」と改めた。秋には徳守神社を総鎮守として造営した。
元禄10年(1697)四代藩主長成病死のあと、五代藩主として江戸へ発った関式部衆利が発病し、8月森家は改易となった。元禄11年正月、松平備前守長矩は美作国律山城を受領し、10万石の領主となり以後危機もあり、所領も5万石になったりしたが、その後は増加に転じ明治の維新を迎える。津山は今も昔も作州の中心である。
(文:つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会案内より)(2022年10月23日撮影)