津山市周辺・岡山県北地域(地域別)

ハーブ・ダリア・コスモス・ひまわりの花(美咲町)

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 2020年10月17日美咲町のまきばの館ではちらほらもみじ等の紅葉がすすんでいました。
コスモスが満開のころかなと思いましたが、もう少し先の様子でした。ハーブの鮮やかな赤や紫の色が目立っていました。また、お花畑では目を引いたのが美しく可愛らしいダリアの花でした。なんて可愛いのだろうとカメラに収めてきました。

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鏡野のコスモスが満開です。

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 鏡野町竹田にある「かがみのドーム」のすぐ傍の田圃で咲いているコスモスが見頃を迎えてとても奇麗です。2020年10月18日は少し歩いても汗が出るような陽気になり、コスモスの花も時おり風に揺られて嬉しそうです。着いた時にはすでに写真を撮られている方や、犬を連れてお散歩している親子や、若いカップルが盛んに自撮りをしていらっしゃいました。かがみのドームの白い色と青空に映えたコスモスの花がとても奇麗でした。

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出雲街道を歩こう会「勝間田宿」

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2020年9月27日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
 出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
 大和朝廷が、武力で全国平定をしたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和狸に国譲りが行われ、朝廷より優遇されて、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。街道は人、物、文化を運ぶ役を果たし、その重要性は五街道(東海、中仙、甲州、日光、奥州)に匹敵し、同等の街道として発展しました。その後の街道も時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存し得いる道で合理性が高く、最も古い道を採用しています。今回は「出雲街道(東部Ⅱ)」よりの特別企画第一弾として、勝間田宿の会の主催で、3区を歩こう会を開催いたします。(文:案内資料より)

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町川神社(奈義町)

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 町川神社は、後醍醐天皇が隠岐へご遷幸の時、後を追ってこられた側室の広橋の局が町内西原で追治皇子を出産され、その後皇子の住まわれる御所を現在の地に造営したのが起こりといわれています。
 本殿は桧皮葺中山造様式(正面入母屋妻入、背面切妻)の建築で、数段の斗供によって屋根を支え、正面に唐破風の向拝を取り付け、軒下には手の込んだ彫刻を施しています。向かって右の扉には皇室の紋章の16葉の菊、向かって左の扉には皇室より下賜された57の桐の紋章を配しています。
明和6年(1769)の建立で、寺社では町内最古の建造物です。
拝殿の前の2基の灯籠は、宝暦3年(1753)氏子中の寄進で、本殿前の「御所宮」の神額は明和8年(1771)出雲大社宮司千家尊徳氏より寄贈されたものです。
奈義町教育委員会 昭和53年12月1日町指定史跡 (文:現地案内板より)(2018年1月20日撮影)

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美作の大庄屋「安東家」(美作市)

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安東家 安東弥右衛門 英田郡土居村 森藩 幕府領
大庄屋まで
 安東氏の遠祖は、英田保の地頭であった安東千代一丸である。彼の名が、康永4年(1345)の足利直義の下知状に見える。千代一丸は、比丘尼城(美作市山口)の城主であったといわれる。
 寛文4年(1664)大寺三郎左衛門が大庄屋を罷免された翌年、山外野村の安東三郎兵衛が土居村に移り、大庄屋に任命されたという。
大庄屋として
 土居宿の本陣は、当初妹尾氏が代々勤めていたが、後に安東氏に代わった。安東家は大庄屋も兼務して、土居宿の運営に深く関わった。大庄屋をやめた後も、幕末まで本陣の経営に当り、参勤交代の手配や宿場の維持に尽力した。
 文化10年12月19日伊能忠敬の測量隊が本陣に止宿した。


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三種の神器八咫鏡と美作「後南朝」秘史(美咲町)

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 岡山県久米郡美咲町飯岡の郵便局前の閑静な田園の中に巨大な石碑があった。
 それは、嘗て津山市加茂町を取材しているときに見た菊の紋章のある菊水山 公卿寺や、加茂神社にあった崇道天皇の御陵、はたまた、勝北町の王子御塚社の由来八咫鏡発掘之地など、色々な天皇にまつわる伝説があり、ずっと気になっていたので知人に聞いたら美咲町飯岡に行ってみたらと教えてもらい訪れてみました。以下、碑文を記してみました。


三種の神器八咫鏡と美作「後南朝」秘史
植月御所の真相(昭和三十六年二月十五日 田中千秋著)

 凡ソ今カラ五百十八前ノ嘉吉三年癸亥十月二十九日ヨリ元禄十年丁丑八月二日マデ、二百五十四年ノ長期間二亘ッテ美作国植月庄北村、現在ノ髙根、鳥羽野両部落ヲ中心二、後南朝正系初代髙福天皇ヨリ、九代良懐親王二到ルマデノ隠レタ天皇ノ行宮ガアッタ。此ノ様ナ厳然タル歴史的事実ガアル事ヲ考エルトキ、今マデノ日本ノ歴史デハ、後ノ南朝ハ大和ノ吉野地方デ絶滅シテイル事二ナッテイルガ、実際二後ノ南朝ガ在ッタノハ、美作ノ吉野地方デアル事ガ確信出来ル。

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ループ橋、ひらめの家跡、ドライブイン「チコ」跡(奈義町)

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 国道53号線の奈義町黒尾峠に架かっているループ橋を久しぶりに渡ってきました。この頃あまり通ることもなかったので、ドライブイン「チコ」が姿を消していたのも知りませんでした。津山方面から黒尾峠のトンネルを出るとすぐのところにあった、ドライブイン「チコ」は思い出多い所です。古き良き昔を忍びながら、あちこち行ってみました。(2020年8月10日・9月21日撮影)

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八咫鏡発掘之地(美作市)

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 昭和33年7月13日、作東町天皇谷小社(右方約30メートルの山裾)より天皇家継承の印しとされる八咫鏡が同所春名義雄誌によって発掘されまいsた。
 美作の東部、勝田郡植月地方には天網家正統とする御南朝の歴史があり、史実を裏付けるものとして貴重な品であるが、現品は発掘者春奈氏によって山口県の赤間神社に奉献され安献され安置されている。
 一説によれば源平の興亡を極めた壇之浦の合戦において、土居・妹尾家(前方の山の持ち主)の先祖が、ひそかに持ち帰ったものとロマンに満ちた逸話もあり、よって安徳帝を祀った同社に奉献されたものが、発掘者春名氏も今は物故の人となり知るすべもない。土居地区史跡保存整備委員(文:現地看板による)(2020年9月13日撮影)

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日本一の石の鳥居と蒜山 郷原宿探訪(真庭市)

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郷原漆器のふるさと 郷原(ごうばら)宿(岡山県指定重要無形民俗文化財)
  郷原宿(真庭市蒜山西茅部)は、美作・伯耆両国を結び、大山参詣や牛馬市へ向かう人々が盛んに行き交った「大山みち」の宿場町で、戦前まで盛んに作られていた「郷原漆器」の産地集落として広く知られています。
 郷原漆器は主に栗の木を使い、輪切りにした生木をろくろで挽く独特な製法で椀や皿を作る実用的な製品です。その始まりは明徳4年(1393)など諸説がありますが、江戸時代には漆器の産地として広く知られ、地元勝山藩でも特産品として着目されています。
 技術改善や購買組合の設立で、大正時代末に生産量は最高に達しましたが、戦争による物資統制などで衰退、昭和20年(1945)の終戦ののち、まもなく伝統的な漆器生産は一度終焉を迎えました。
 そうしたなか、昭和時代末から始まった漆器復興の取り組みは、平成4年(1992)の「郷原漆器生産振興会」設立、岡山県からの郷土伝統的工芸品への指定、同8年の拠点施設「郷原漆器の館」(蒜山上福田)建設につながり、同18年には生産振興会の保持する製作技術が民俗技術として県下で初めて重要無形民俗文化財の指定を受けるなど高く評価され、蒜山地域に新たな活力を生み、さまざまな可能性の広がりを見せつつあります。
真庭市教育委員会 (文:現地看板より)(2020年8月22日撮影)

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