▲熱心に、ピカソのDVDを見ながら、静かに音楽を聞く犬がいました。(2011.年9月10日(土)取材)
ピカソが実際に描く絵の速度が見え、大変興味深いDVDでした。また、バッグラウンドミュージックには、展示中の円形の楽譜を演奏したものがかかっていましたよ!皆さんも一度聞いて、観て、感じてください!オススメです。(2009年10月の取材の様子)(2011年8月の取材)
メストレス クワドレニ ヴィジュアル音楽展
開催期間 9月3日(土)~10月2日(日) 10:00am~5:00pm(土日のみ)
第8回津山国際総合音楽祭期間9月17日(土)から9月25日(日)は、毎日開館
観覧料 無料
本展はスペイン バルセロナ出身の現代音楽の作曲家メストレス クワドレニ(J.M.MESTRES QUADRENY)のヴィジュアル音楽展(いわゆる楽譜展)でヴィジュアル音楽を日本で初めて本格的に紹介する展覧会です。
ユニークで独創性あふれる楽譜は、その常識を覆すもので、そのうちの円形楽譜のCDを会場で聞いていただけます。また著作、アーティストブックなどの展示もしております。メストレス クワドレニは現在スペイン、ヨーロッパで現代音楽をリードしている最も優れた重要な作曲家です。彼は化学者ですが、平行してクラシック音楽を修めているうちに、新しい分野を開拓しなければならないと感じ、現代音楽にまっすぐつき進みました。作品はピアノソナタから映画音楽まで幅広く200曲を超えます。そしてシェーンベルク(SCHONBERG)、ジョン ケイジ(JHON CAGE)、またミロ(JOAN MIRO)、タピエス(ANTONI TAPIES)、ジュアン ブロッサ(JOAN BROSSA)等、現代音楽の端緒を開いた音楽家、造形芸術家や詩人たちと出会い、共同で数多くの素晴らしい仕事をしています。保田扶佐子、バルセロナの画家ルイス ペッサ(LUISE PESSA)ともアーティストブックを作成しています。
日本ではきわめて珍しい展覧会です。この機会をお見逃しなく、ぜひご来館ください。
(この展覧会を、芸術をこよなく愛した、故河田侃久氏に捧げます。)
第8回津山国際総合音楽祭協賛
▲リニューアルされた河野美術館玄関です。(2011.8.28) (前回の取材)
入館料:無料で土曜、日曜の午前10時~午後5時開館(津山市勝間田町16TEL0868-23-4285)
河野 磐(コウノ イワオ)
大正9(1920))年1月19日生
昭和12年 津山中学校(現 津山高等学校)卒業
昭和16年 国立京都高等工芸学校(現 京都工芸繊維学校)卒業
昭和17年 岡山県美作高等女学校、津山女子商業高校教諭。
昭和23年 学制改革により岡山県美作高等学校、岡山県美作中学校教諭。
昭和26年 退職。東京移住。
昭和43年 美作女子大学、美作短期大学教授。
平成2年 定年退職
平成23年2月8日 逝去
昭和57年 くすのき賞受賞(津山市文化協会より)
平成7年 津山文化功労者表彰(津山市より)
プロテクターでピカソが実際に書いていた速度や、ピカソの生の声がビデオで流れ、とても面白く拝見しました。(取材2011年8月21日)★2010年の取材、★2009年の取材
保田扶佐子美術館/開館時間10:00am~5:00pm/開館日 土曜日・日曜日/観覧料 無料/
《保田扶佐子プロフィール》抽象画家・版画家
1942年10月20日。岡山県津山市に生まれる。1981年よりスペイン・バルセロナを拠点に活動する。個展、グループ展多数。絵画、版画のほか、多くのアーティストブックで画家、詩人、作曲家たちと共同制作している。現在はバルセロナと日本を往復しながら活動中。
過去の記事へのリンク集です。(最近の記事はこちら:イベント紹介記事「旧津山扇形機関車庫」カテゴリ)
また、関連記事。
久米の道の駅では大きなガンダム前で記念撮影!(2011年7月8日)
C11-80機関車の概要(2011年7月1日取材)
製造月日 昭和10年3月30日
廃車月日 昭和50年1月24日
製造場所 日立製作所笠戸工場
運転線区 昭和10年4月19日 予讃本線(松山機関区)
昭和19年4月3日 芸備線(三次運転区)
昭和23年7月8日 津山線(津山機関区)
昭和48年4月11日 只見線・会津線・日中線(会津若松運転区)
運転キロ 1,751,397.8キロメートル
由 緒 本機は、ディーゼル車両が多用化されるまで、支線の短区間旅客列車用に造られた、代表的なタンク機関車で、昭和23年7月から津山機関区に配属され、24年間県北部において、戦後復興の担い手として客貨輸送のため走り続けて来た。その間、昭和37年10月の岡山国体には、お召し列車を、昭和46年3月津山線ディーゼル化の際は"サヨナラSL"の牽引機として、地域住民に親しまれた機関車である。
しかし、動力近代化の波におされて、陸奥の会津若松にてその生涯を終える。
参 考 長さ 12.65メートル 幅 2.83メートル
高さ 3.90メートル
重量 (積車)66.05トン (空車)51.90トン
最大許容時速 85.0キロメートル(案内板より)
▲多胡酒店裏側(2011.6.14)↑写真提供:多胡益治さん
津山城をつくった森の殿様の頃から、高瀬舟がこの辺りまで来ていました。「川を下って西大寺」という、はやり言葉があったほど、ここから米やまきや穀物を積んで西大寺まで舟が行きかっていました。
ここの船着場は、舟から人や荷物のあげおろしをすることができやすいように、きちんと整えられていたそうです。そばに立つ高灯籠(たかとうろう)からは、当時の人々の願いがわかります。
「金比羅大権現」・・・航海が 安全でありますように
「天照皇太神宮」・・・天気が おだやかでありますように
「木山牛頭天王」・・・悪い病気が はやりませんように
「中山太神宮」・・・この土地が 栄えますように
楢の常夜灯沿革 (津山市楢字下浜37番の2) 2011.6.14
初代津山藩主森忠政は高瀬舟による吉井川の舟運を開いた。支流の加茂川においても、因幡往還との接点である楢村に舟着き場を設けて年貢米等の積み出しの便を図った。施設は石雁木、荷揚げ場、米置き場、詰所、などがあった。建設に当たっては護岸に川石を用いず、近くの鷹山の中腹の岩石を切り出して石積みを行った。
楢村が幕領に移されてからも、川湊としての機能はますます重視された。勝北地域の幕領の年貢米の積み下げの重要な河岸とされ、吉井川流域では最も多く積み出した。
諸物資の流通もまた盛んになり、楢村は周辺地域の物資の集散地として多くの人々で賑わった。因幡往還の両側に日用雑貨や食べ物の店などが並んで在町を形成し、大商い・小商いの商業活動が活発に行われ、やがて、大商いは城下の商業と競合するまでになった。
また、舟運による情報や文化の流入、商業活動の活発化等は村人の意識に多大の影響を与えた。商業活動の確保や米置き場問題、化政期からの私塾経営等特徴ある活動が行われている。
文化元年、津山藩領に編入時、楢村の商業活動は曲折の後藩から追認され、以後明治にいたるまで楢村は在町として発展を続けた。
幕領時支配の変更のたびごとに発生した米置き場問題も、楢村が津山藩に編入された際には困難を極め、ついに訴訟するに至った。そして、文政11年になってやっと解決した。
天保9年、村人はこれらの問題の解決を喜び、村のいっそうの発展を願って常夜灯を建設した。こも銘文から建設の寄付集めや諸世話・石集めから石工にいたるまで、村を挙げての取り組みであったことが伺える。
(文:多胡益治さん)
▲中須賀船着場石灯籠(2011.4.10)
中須賀は、吉井川の船便を利用し、下流にある備前国との交易をする物資の集積地として、また宿場町として栄えた地で、出雲街道の要衝のひとつであった。
ここにある三基の灯籠は、航路の安全を祈る為に建てられたもので、出雲街道の両側に伊勢神宮内宮・外宮(明治元年11月吉日)の石灯籠が、また、吉井川沿いには金比羅宮(嘉永7年10月吉日)と刻まれた石灯籠が建てられ、常夜灯として昭和10年代頃まで各家順番で点火していたということである。
その後、これらの石灯籠は、河川改修によりこの場所に集められ、現在に至っている。久米町教育委員会(2011年4月10日、中須賀船着場の看板より)