四国八十八ケ所霊場巡拝<第85番~第88番>
2024年11月7日・8日 津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝に参加させていただきました。今回は第80番 国分寺~第88番 大窪寺までの9ヶ寺を(一泊二日)で巡ってきました。清龍寺さんを朝8:00に出発して四国八十八ケ所霊場巡拝の旅へ。
2日目の順路は、 第85番 八栗寺 ⇒ 第86番 志度寺 ⇒ 津田の松原(昼食) ⇒ 第87番 長尾寺 ⇒ 第88番 大窪寺 ⇒ 附中湖PA ⇒ 高梁SA ⇒ 津山でした。
2024年11月7日・8日 津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝に参加させていただきました。今回は第80番 国分寺~第88番 大窪寺までの9ヶ寺を(一泊二日)で巡ってきました。清龍寺さんを朝8:00に出発して四国八十八ケ所霊場巡拝の旅へ。
2日目の順路は、 第85番 八栗寺 ⇒ 第86番 志度寺 ⇒ 津田の松原(昼食) ⇒ 第87番 長尾寺 ⇒ 第88番 大窪寺 ⇒ 附中湖PA ⇒ 高梁SA ⇒ 津山でした。
2024年11月7日・8日 津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝に参加させていただきました。今回は第80番 国分寺~第88番 大窪寺までの9ヶ寺を(一泊二日)で巡ってきました。清龍寺さんを朝8:00に出発して四国八十八ケ所霊場巡拝の旅へ。
順路は、1日目は、第80番 国分寺 ⇒ 第81番 白峯寺 ⇒五色台(昼食)⇒第82番 根香寺 ⇒ 第83番 一宮寺 ⇒第84番 八島寺 ⇒ 庵治温泉(泊) ⇒ 第85番 八栗寺 ⇒ 第86番 志度寺 ⇒ 津田の松原(昼食) ⇒ 第87番 長尾寺 ⇒ 第88番 大窪寺 ⇒ 附中湖PA ⇒ 高梁SA ⇒ 津山でした。
2024年10月27日(日) 10:00 〜 13:00 「津山まち博(津山まちじゅう体験博)」
津山市林田にある楞厳山 慈恩寺(りょうごんざん じおんじ)で、心身統一して心穏やかに、大観音菩薩と瞑想・写経体験とお抹茶・季節の箱善付きの体験をしてきました。
慈恩寺で出会える、身長4,8メートルの十一面観世音菩薩像、樹齢約2000年の木曽桧の一木彫りした姿は圧巻です。観世音菩薩に見守られながら心静かに瞑想体験をしてみましょう。ご住職のお話のあと、般若心経の写経を行ないます。瞑想で心を静めたあとの写経は、より集中して無心になり、心がリセットされるはず。 最後はお抹茶と季節の精進箱善をいただいて身体の方もデトックス。
奥津川大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第49札所)は、津山市奥津川地内にあり、津川ダムと声ヶ乢との分岐そばの家の裏にあります。ブロック造りトタン張り。本尊は観世音菩薩です。
(先達は木元林造さん)(2023年3月28日撮影)
比叡山延暦寺を本山とする当寺は、千百余年の歴史をもち、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の御作、聖観世音菩薩を御本尊として安置していますところから、弘誓山 観音寺といいます。
《寺暦》
平安時代の天安年間(857~859)、比叡山第三祖慈覚大師(じかくだいし)によって、間山に(高福寺の一院としての説がある)創建された。その後(年代不詳、間山では火災説がある)、田井観音免(地名)に移転したが、天文十三年(1544)大洪水に遭い、御本尊以外の宝物・古文書等を流失し、建物は廃頽した。このため草創以来七百有余年の盛衰については詳らかではないが、田園化した田井寺跡は現在「観音面」の地名で残っている。(文:天台宗 弘誓山 観音寺の案内から抜粋)(2023年11月29日撮影)
津山市加茂町河井の河井観音堂(加茂郷88カ所霊場14番札所)を訪ねてきました。民家より100m程入った山の中にあるのですが、木元さんに案内して頂かないと中々わかるところではありませんでした。ここは、観世音菩薩がお祀りされています。また、鶏の鎮魂碑もあるそうです。
(先達:木元林造さん)(2022年10月4日撮影)
西登山金屋寺は、西谷の奥の山腹、木ノ口にある。(昭和46年2月10日村指定史跡)
金屋寺創建の由来については明確ではない。人口に膾灸されているところによれば、阿波村はこの地からタタラ稼業の集団によって開発された。
阿波村の地は、良質な砂鉄を含んだ真砂土(風化花崗岩)の山が多く、タタラ製鉄の跡と思われる鉄滓の散乱したところや、タタラ製鉄にまつわる地名も多く、古代から近世にかけてタタラ製鉄が行われていたことがしのばれる。
本来、タタラ製鉄に従事した稼業集団の人たちの信仰したのは金屋子神を祀る習慣をもっていた。金屋子神は自分たちの稼業の安全と加護を願って信仰する神であった。したがって、金屋子神も社はいわゆる自分たちの職場のところに建立されたものと考えられる。
佛頂山 圓明寺
当山は昔、現在の美作市古町の八幡に在り、八幡山圓明寺と称していました。慶応3年(1867)7月24日火災に遭い、堂宇はもとより、本尊、寺宝、什器の大部分を焼失。明治13年(1880)、当時の住職庵智照上人により、現在の地に移転しました。
現在の地には、華山院入覺法皇が創立した、佛頂山慈眼寺が在りました。兵火により焼失し、元禄14年(1701)生駒の宝山寺より来られた深龍大和尚により、佛頂山光明庵を建立されました。
明治13年に慈眼寺と圓明寺を合併し、慈眼寺の堂宇をそのまま使用し、山号は慈眼寺の佛頂山、寺号は圓明寺をとり、佛頂山圓明寺と改称しました。これが現在の寺です。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月9日撮影)
当山は、高貴山相傅寺第九世圓教僧都が、寛仁4年(1020)に、隠居寺として岡之坊遍照院を建立したのが始まりです。
文安元年(1444)、兵火のため相傅寺焼失の際に、本尊であった六観音のうち、焼失を免れた十一面観世音菩薩を遷(うつ)して、法雲山観音寺と寺号を改めました。初代は宥快僧正です。
庚正2年(1456)8月19日、第三世密厳上人が遷化した夜に失火により焼失しました。当時は、戦国時代でなかなか再建できずに廃寺となろうとしていたのを、明応9年(1500)に地頭職であった浦上左馬之助行重が、京都より俊玄増正を招き再建立しました。
その後も、再三にわたって兵火や失火により焼失しましたが、嘉永6年(1853)に、中興第一世戒光法師が再建し、山号を寶壽山と改めました。
再建立の年が、庚申の年に縁あるをもって、庚申(青面金剛)を勧請して鎮守としています。
平成16年、現在の本堂と檀徒会館を建立し、平成19年に五大明王堂の新建立、鎮守堂の移転や境内整備を行い、今日に至っています。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月20日撮影)
当山は、天平勝宝6年(754)に創建されたお寺で、鑑真和上の開基です。かつての本尊は行基菩薩作の正観世音菩薩と伝えられております。現在地には昭和33年に移って参りましたが、元は久米南町泰山寺というところに伽藍が配備されていました。
現在、新旧のご本尊を初め、仁王像などの仏像修復が進んでおります。(平成27年完成予定)。かつてのご本尊様からは、創建当時の温もりが、また現在のご本尊様不空羂索観世音菩薩からは、まるで息づいているかのようなお姿が感じられます。
密教寺院でありながら、地獄の王たちとして知られる、十王様のお姿がお祀りされています。例えば閻魔大王や脱衣婆など、「あの世」のイメージとしてよく知られた尊像が、完全な形で拝めます。
また、本堂向かって右側には、位牌堂を兼ねた大師堂があります。