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「棟方志功・まぼろしの初期作品集展」M&Y記念館

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2F展示室 特別企画展 「棟方志功・まぼろしの初期作品集展」
3月31日(土)~9月30日(日)
 今回の企画展では、処女版画集である『星座の花嫁』をはじめ、初の裸婦作品集となった『ヴェニュス生誕』、今回発見され、「開運!なんでも鑑定団」にも登場した幻の作品集『季節の花籠(草稿)』など、初期の貴重な棟方志功の版画作品集を一同に展示しています。


 「季節の花籠」は、不動明王に始まり、不動明王で終わる作品集で、河井寛次郎に学ぶ以前の志功の仏教観をはじめとする様々な心象、題材、表現手法が各作品にテーマとして現われており、将来の棟方作品を見事に予感させてくれます。
 昭和初期、棟方志功が、貧困の中で試行錯誤しながら版画に取り組み、自身の作風を確立して行くまでの過程が良くわかる作品展です。入場料:500円(1F企画展もご覧になれます。)
文:棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)提供

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清瀧寺 六十六部 廻国供養と六体地蔵

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清瀧寺仁王門に隣接した東の土手際に、江戸時代の民間信仰を代表する地蔵の石塔や大日如来、六十六部廻国供養等の供養塔がある。
多数現存している大日如来の供養塔については、後述するとして、時折散見される六十六部の廻国供養塔に注目したい。
清瀧寺の供養塔には、「宝永五戌 祈 願主 (梵字)六十六部廻国供養 十一月十八 春教」とある。六十六部とは、俗に六部とも言われ、本来は厨子を背負い、書写した衆生救済の法華経を全国66ヶ国の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴して廻る行脚僧のことである。鎌倉時代末期に始まっているが、江戸時代には俗人も行い次第に大衆化した。男女とも白地の木綿の着物に、手甲、甲掛、股引、脚絆といった巡礼姿で鉦を叩き、鈴を鳴らして巡回した。
宝永5年(1708年)といえば、江戸時代半ば、大阪~東海で大地震があり、富士山が大噴火した惨害の翌年であり、春教という行脚僧の心境がしのばれる。(2012.3.21)

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河面 墨池山(ぼくちざん)清瀧寺と仁王門

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 河面にある清瀧寺は、作州きっての古い真言宗のお寺である。(お寺シリーズ、レポート記事
旧「岡山県勝田郡誌」(初版 大正元年)に、「本郡には役の小角夙に来り聖武の朝国分寺を建てられ又行基来り空海来り圓仁来り各寺院を創造す 故に古来巨刹多く宗派は真言を最多とす天台之に亞ぐ」と記述されているように、真言宗の清瀧寺は、まさに、弘法大師(空海)ゆかりの古刹とされている。
 空海が唐の都長安で修行に励んだ寺は、青龍寺であり、ゆかりの寺院名称であるうえに、寺伝によると、平安時代初期の弘仁12年(821年)、嵯峨天皇が弘法大師に命ぜられて建立されたとされている。墨池山というのも、雨乞いの加持祈祷を行った弘法大師が、自らその筆を洗ったという「墨の池」も伝説にちなんでの山号であり、今も伝説の墨池という小池が残されている。
 清瀧寺の往古は、広大な七堂伽藍をようして、多くの僧坊があり、西光寺・真福寺など7カ寺の末寺を持つほど栄えたらしいが、中世戦乱に巻き込まれ、やがて廃絶したと言われている。(2012.3.20)

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田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群

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田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群(2012.1取材)
 田熊西山集落の南側にある丘陵上の平坦地は、八幡宮の神事場となっている。神事場とは、お御輿のいわゆるお旅所のことである。祭礼のとき、田熊八幡宮を出たお御輿は、左折して西ノ谷集落に入り、南側の神事場参道の坂道をいっきに上って、ここで神事を催した後で、休憩をしている。神事場は、今でこそ片隅に石垣の御輿台を残すのみで、全体が小グランドのようなゲートボール場に様変わりしているが、戦前は、南側の参道と共に松並木の大木に囲まれた草原で、祭礼に多くの幟(のぼり)が立ち並び、神聖さを感じさせられる場所であった。
田熊八幡宮が、あまりにもけわしい坂道を上っていかねばならぬため、足の弱い年寄りや婦人・幼児たちのとって、神事場がお祭りのお参り場所であった。そのため、ここで輿練りなど盛大に神事が行われたことから、大勢の人が集まるようになり、戦前は、出店も数軒構えられるほどに賑わったそうである。

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広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑

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広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑
 広野保育園の南側で、南北に通じる市道福井線と、東西の旧真加部街道の接点に位置する道ベりに、地元の人が言う六部の碑が祀られている。
 六部の碑とは、正しくは全国六十六部廻国供養塔のことである。世の平穏や民生の安定を願って、全国六十余州の有名社寺を行脚して、法華経札を納めて廻る遍歴の僧侶たちを本来、六十六部と称した。しかし、江戸末期には次第に大衆化して、村々を廻って戸口毎に拝み米や銭の御布施をもらって歩く、遍路姿の在家の巡礼者たちをも総称して六部と言うようになった。彼らは廻国道中に村人の協力を得て、往来の多い道筋あたりに、こうした供養塔を建立した。今日に残るあちこちの供養塔に六十六部の記名がある所以だが、近くでは、清瀧寺仁王門そばの廻国供養塔とおなじ類いである。

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福井 古い伝承のある福井八幡宮

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福井 古い伝承のある福井八幡宮1(2012年2月12日取材)
 福井八幡宮は、自然の豊かな林に囲まれ、幅広い長い参道やよく整った境内、古い本殿や相応の拝殿の建物を有し、いかにも鎮守の森を思わせる神社である。しかしながら、道路から見えにくい離れた山中にあるため、地域の人以外は、その所在が知られていない。片山・桑田集落の南に広戸川が流れ、対岸に西から東へ川に沿ってなだらかな丘陵をなした山がある。その木立でおおわれている山の中腹に八幡様がある。
 四つ立橋を渡り、福井大崎線から勝間田方面に抜ける道(工門勝央線)に入ると、直ぐに参道の入口があり、尾根つたいに3~400m参道を上ると、神社境内に達する。この道が単に参道ばかりでなく、田熊方面に抜ける山道であったことを物語る道標が、入口に半ば埋もれ今も残されている。
 福井八幡宮の創設は古く、一説に平安時代、広山・田熊八幡と同様に、福井八幡宮は、清瀧寺本尊に対する南部の守護神として創設されたとも言われている。しかし、平安末期、新宮山に位置する新宮城とのかかわりのなかで、創設されたとの説が具体的で実証的である。

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河面 旧街道の要衝を示す萬屋(茶店)と道標

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河面 旧街道の要衝を示す萬屋(茶店)と道標(2012年1月28日取材)
 自動車の通行を考えない昔は、山坂をいとわず、ほぼ直線的な最も近いところを道筋としていた。農山村地域に残されている旧道の山道は、たいていは上り下りの変化は大きいが、最短コースを考えた道筋であった。
 加茂谷や日本原を受けて、近長方面から大崎方面(播州街道)に抜ける南北の道や真加部・植月方面から田熊を経由して河辺方面(備前街道)に至る東西の道は、河面の下山地域を通過していた。とりわけ、勝田町真加部から勝央町を通って河辺・津山と結ぶ道は、津山真加部街道として、年貢米の輸送、商人の往来、寺社詣での主要道路として栄えていた。河面でちょうどこの接点に相当している場所が、下山地区の吉田家(吉田富之助さん宅)であった。江戸時代、吉田家は、萬屋の屋号をもち、茶店を営み繁盛していた。参詣にやって来た津山の殿様も、必ずこの萬屋に立ち寄り休憩して、威儀を正して清瀧寺なり広山八幡宮にお参りしたと言われている。当時は、河面の集落も吉田家周辺の丘陵上に多くあったということである。 

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福井 縁日に今も賑わう長谷稲荷(ながたにいなり)

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長谷稲荷(ながたにいなり)  2012年2月11日取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)
 長谷稲荷は、福井の地域にありながら、福井と一部田熊の地元関係者以外は、あまり所在が知られていないのではないかと思われるが、今でも熱心な信仰のもと、縁日には多数の参詣者があり、賑わいを見せている。
 この稲荷様は、福井の集落から2~3kmかけ離れている津山市の東端部で、勝央工業団地の北側、すなわち、勝央町福吉と境を接する山地の山頂部に位置している。稲荷としては珍しく創建の由来や時期がはっきりし、集落とかけ離れたところに位置している意味もわかる数少ない神社である。要約して言うならば、江戸時代末期、福井村と福吉村との入会地紛争の結果創建された、いわば封建時代における民衆の苦難の歴史を秘めた神社なのである。

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広野 田熊八幡宮秋祭り(2011年)

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若くて溌溂とした担ぎてにおもわず拍手喝采!(2011年11月3日)
 2011年11月3日に田熊八幡宮の秋祭りが執り行われました。
ドドーンドン・・・今年も宵祭りの太鼓の音が響く。町内の当番に当っている役員や若者が夜を通して太鼓を叩き、かがり火を焚く。午前2時頃になるとかなり冷えこみ、たき火で暖をとる。夜が明け朝7時頃から町内の人々が集まり始める。
 午前9時、田熊八幡神社で祭礼をすますと、豆しぼり姿の若者たちは約400 kgのお神輿をかつぎ上げ、境内をねり歩く。その後お神輿は、傾斜約30度の坂道へと進む。最初の階段は、傾きが40度くらいはあろうか・・・。 ここが最初の難門。若者たちも、一歩一歩慎重にお神輿を前に進める。以下津山瓦版特集へとつづく 【田熊八幡宮の取材記事はこちら

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河面 斎田のあった歯朶(しだ)森大明神

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河面 斎田のあったあった歯朶森大明神(2012年1月28日取材)
 植月線河面坂を下り、平地にでる間際の南側山手(喫茶パンの木の裏山)に、ひっそりとした雰囲気の歯朶森大明神(しだもりだいみょうじん)と言われるお宮がある。神社へは、国道から南に入った最初の谷をしばらくいくと、鳥居が見え、境内への上がり口となる。神社らしい森のなかに、小規模ながら鳥居・石段・常夜灯・お宮の本殿とたたずまいをもち、よく手入れされ整えられている。
 伝承によると、平安末期に福井の新宮城に祀られていたお宮が、源平合戦の戦乱に巻き込まれて、落城の後ここに移されたらしい。文化9年(1812年)発刊をみた「東作誌」には、河面村に「歯朶森明神社」の存在が記載されていることからも、昔ながらの神社である。

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