2019 衆楽園の紅葉が美しい。
2019年11月20日の衆楽園の紅葉の様子です。
当日は晴れ時々曇りの天気で、時折太陽の光がさすとモミジの紅葉がより一層輝いて美しい公園です。
衆楽園は森家二代目藩主長継が1657年に京都から作庭師を招いて造らせた池泉廻遊式庭園で、国の名勝に指定されています。
津山城(鶴山公園)の紅葉もピークを迎えて美しい季節です。ぜひ、衆楽園にも足を延ばしてみてください。
2019年11月20日の衆楽園の紅葉の様子です。
当日は晴れ時々曇りの天気で、時折太陽の光がさすとモミジの紅葉がより一層輝いて美しい公園です。
衆楽園は森家二代目藩主長継が1657年に京都から作庭師を招いて造らせた池泉廻遊式庭園で、国の名勝に指定されています。
津山城(鶴山公園)の紅葉もピークを迎えて美しい季節です。ぜひ、衆楽園にも足を延ばしてみてください。
福井の本平集落の西側は、山地となっているが、そこに井ノ奥谷(いのおくたに)と呼ばれる谷がある。そこには、明らかに半ば削り取られたとわかる古墳があり、その中央部分を平らにして、早神様(はやがみさま)と言われる小詞が祀られている。また、その後側のすぐ近くに、井上一族のこれまた珍しい先祖社が祀られている。
所在は、井ノ奥谷に入ってすぐ山際北斜面である。
その場所は、かつて森藩政のもとで、福井村の大庄屋であり、福井八幡宮の軒札にも名前が記載されている井上五良兵衛(いのうえごろべえ)の屋敷があったすぐ裏手の山である。井上五良兵衛の庄屋屋敷は、今は全く畑となっているが、屋敷裏の谷には、いまも防火用水池のあとが残されている。その池付近から、この古墳や祠を見ることができる。
津山市の埋蔵文化財センターでは、この山地に本平古墳群として、三基の古墳を登録しているが、古墳時代末期の、この早神様が祀られている古墳もその一つに該当している。
当山は、大宝三年(703)の開山と伝えられています。開基は不詳ですが、一説に鑑真和尚の説があります。
弘法大師が美作路を巡錫の道すがら、蕎麦尾山に立ち寄られ、しばらく足を留め修業をされましたが、その折、近くの岩の塊を祈念し、手に持てる五鈷で岩角を打つと、忽ち澄み切った水がほとばしり出ました。大師は傍らに八大龍王及び弥勒菩薩を祀り、この霊水を本尊に供えられました。以来この霊水は、弘法大師の閼伽池として後世に伝えられ、今も霊水の枯れることなく現存しています。
平安、鎌倉時代には特に栄え山上には伽藍がそびえ、参道の途中には小堂が建立され、高野山になぞられてこの堂を女人堂といい、当時女性はこの堂までしかお参りできませんでした。
慶長十一年(1606)、当時の住職快秀が、ある夜の夢に、「この寺には以前銘鐘があったが、地中に埋められている。早く掘出しなさい。鐘のある場所は浴室の側の芭蕉の根元だ。」と告げて消え去りました。夢から覚めた住職は早速芭蕉の根元を掘ると、五尺余りの見事な梵鐘が出てきました。その銘には「美作国蕎麦尾山光明院 法界衆生平等利益之為也 嘉元四年(1306)丙午年正月二十八日」と刻まれていました。嘉元四年は鎌倉末期であります。
戦前地元に良い音色を響かせ親しまれていた銘鐘も、戦時中に供出させられ、今はありません。
中山の神に奉仕した里人有木氏が居住していたところ。屯倉、神饌1000米のルーツと言われている。江戸時代にここに伯耆街道を通した、新町宿場町、百乢、養野、倉吉、隣接の香々美村への主要連絡通路。牛馬の水飲み場であった古井戸や屋敷跡がある。(文:美作一宮の文化財地図より)
鶴坂の上り口にあり、寺城出身の力士の塚である。弘化4年(1847)の大坂番付に記載されている。本名は太田斉七といい、墓が寺城池の下にある。斉七塚のすぐ上は墓地になっており、疣神社、六体地蔵、供養碑がある。さらに進むと鶴坂の頂上付近の中国自動車道を横断する陸橋を渡るとすぐ左の小祠が鶴亀神社である。そばに三星城の家臣鶴之丞が妹亀の仇を討とうとしたが返り討ちに遭ったという哀話の説明板がある。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
鏡野八景 極楽寺とその周辺
青木山極楽寺の開基は、奈良朝の高僧、越智神融禅師と伝えられ、和銅年間に、この地に千手観音の像を安置して「極楽寺」と名づけられた。今から千二百年前の昔である。
往時は、雌雄巌の下から五百七十坊の寺が甍をならべ、多くの僧侶が勧勤読経して繁栄を誇ったと伝えられているが、現在はその面影を偲ぶことができない。
足利氏の末期、毛利の軍勢が入国するにあたり、寺は兵火にかかって焼失したという。
慶長年中、本尊鎮守等が修理され、再建された常念院が現在の極楽寺となっている。
足守藩主木下家は、平氏の出身でもとは杉原と称していました。杉原家定は織田信長の家臣でしたが、妹の「ねね」は、木下籐吉郎(後の羽柴秀吉・豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉の天下人に伴って「北の政所」となりました。このため、ねねの実家が秀吉一族として木下姓を名乗ることを許され、さらに豊臣の称号も与えられました。
関が原合戦に際して、2万5千石を領有して姫路城主であった木下家定は、北の政所を守護して中立を採り、合戦の後の慶長6年(1601)3月27日に、同じ石高で備中国足守に所領替となりました。ここに足守藩主木下家が始まり、一時中断があったものの、家定の子孫が明治維新まで13代にわたって藩主として、足守陣屋町の整備に尽力しました。
2019年4月28日平成が終わろうとしている時に津山市内を友人とドライブしてきました。毎年清瀧寺で行われる仏壇のお焚き上げに今年はお願いする予定にしていると言う友人の話から清瀧寺さんに立寄らせて頂きました。この季節、清瀧寺は毎年綺麗に咲く白い藤棚があります。今年は少し花の長さが短めでしたがとても綺麗でした。清瀧寺は弘仁十二年(821年)人皇五十二代嵯峨天皇の勅旨により弘法大師が開基されたものと伝えられています。
清眼寺は、美作88ヶ所第56番札所・美作国七福神毘沙門天霊場として、多くの参拝者で賑わいます。別名ぼたん寺ともいわれ、毎年のぼたん祭りには、色とりどりの美しい大輪の花を咲かせ、参拝者を楽しませています。今年は可愛い着物姿の子どもさんと出会い写真を撮らせていただきました。清眼寺のぼたんも可愛いけれど、ほんとに可愛らしい姉妹でした。(2017年の様子)(2019年4月28日撮影)
2019年4月17日のウッドパーク声ヶ乢の約1200本のさくらです。
今年は、少し肌寒い日が続いたり、温かかったりと温度差の激しい年となりましたが、ウッドパーク声ヶ乢のさくらがとても綺麗に咲いています。津山城(鶴山公園)のさくらが散った後、ここに来るとまた綺麗に咲いたさくらが見えます。(2009年4月5日撮影)(2010年4月14日撮影)(2010年4月14日夜桜撮影)(2013年4月15日撮影)(2015年4月24日撮影)