取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「池」で検索した結果,313件の記事が見つかりました。

2018 衆楽園の紅葉

syuraku26.jpg

 2018年11月14日、曇りの予想でしたが晴れたので急いで、衆楽園のモミジを観に行って来ました。
衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に「衆楽園」として命名されました。
  衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。(津山城より)

2018 衆楽園の紅葉の続きを読む

勝部神社(勝部)の秋祭り2018

katsube24.jpg

 2018年11月3日真っ青な空の下で執り行われた勝部神社のお祭りを取材してきました。
11月3日は津山市内は最後のお祭りでしょうか、あちらこちらでお祭りが行われています。
 「勝部」というのは、勾玉、玉、鏡など研磨する仕事をさし、一説には様々な職能集団の長(統括者)的役割を担うとも言われています。
「勝」とは、磨くという意味があり。この地域には、そういう職種の人がいた場所であり「五十年程前には、東地区の池付近で水晶を取った事がある。」と言う方も居られ、産出もしていたのではと考えられるそうです。詳しくは勝部神社の取材記事で。

勝部神社(勝部)の秋祭り2018の続きを読む

飯山狐の話『山西の民話』

kitsune-iizuka.jpg

 昔のことである。飯綱から飯山、加茂-物見-因幡にぬける道を「因幡街道(加茂街道)」といって、津山から因幡にぬける重要な道筋であった。御維新にならない前の頃だった。この街道を津山から加茂へ帰ろうと急いでいる一人の馬子がいた。道は夏目池の裏側を通って飯山の六本松のある観音様の所へ通りかかった。フト観音様のお堂のかげから女の人が出て来た。馬子はこんなにおそく観音様から若い女の人が出るなんて、と不思議に思った。 
 女の人は若い美しい娘だった。

飯山狐の話『山西の民話』の続きを読む

名主の話『山西の民話』

musume.jpg山西に水源がなくて困った頃の話である。水田は、ほとんど天水田であった。天水田というのは、自然の雨水をためて耕作する田んぼのことである。特に寒い時の水をためて大事にしとくのである。寒水、雪どけ水は、大へん珍重せられ、夏水にくらべて水のもつ力がつよく、たんぼをまもる力がつよいといって大事にされたものであった。天水田以外は山雨川―蟹子川の流水があったがこれとて川といっても名ばかり、よその溝位のものであった。夏には水がかれて、かんがい用には余り役にたたなかった。


私の小さい時、冬の日に母が水車へ行って米を搗いて来たのをおぼえている。夏場は川の水は朝から翌朝まで、たんぼのかんがい用水として水車をまわすわけには行かなかった。夏の日、冬ためづきした「寒搗き米」でご飯をにてたべていると「スイ」くて変な味がしたが仕方なく文句も言わずに食べたものだった。また、たんぼも天水がだいじで、あぜを特に強くして、槌でたたいてむくろ穴をふせぎ、その上に泥を塗り、藁で日おおいをして更にもう一度泥をぬり水を一滴でも流さないように工夫をこらしたものであった。この天水田を「しる田」といって、夏も冬も水があった。

名主の話『山西の民話』の続きを読む

谷崎潤一郎文学碑(小田中)

tanizaki4.jpg

「疎開日記」碑 谷崎潤一郎
「池に落つる雨の音侘し。因に云ふ。この御殿は明治初年にお城より此処に移し建てしものの由にて、愛山宕々庵と号す。床の間に松平康倫公の書『愛山』の軸をかけ、その上に鶴堂公書『宕々庵』の額あり。6畳の間に慎由公夫人静儀の和歌『山は今朝霞のきぬにつつまれて千代の色そふ松の対立』の額あり。」
文豪、谷崎は終戦間際の昭和20年津山に疎開。宕々庵で「細雪」を書き継いだ。八子・愛山

谷崎潤一郎文学碑(小田中)の続きを読む

狐塚の話『山西の民話』

kitsune-1.jpg 古池((現・小池)の奥に「石が谷」というところがある。昔、水の便利が悪くて稲が作れず、畑にして大豆をを作っていた。毎年のこと、豆がうれるころとなると兎が出て豆を食い荒らして困っていた。ある年、持主の花戸(ハナト=家号)の六兵衛隠居が腹を立てて、兎退治を思いついた。勢子をたのんだら、早速に治郎兵衛や弟の熊や、虎やんや常やんや、雄治に治太郎など若者が集まって「やろう」「やろう」といきり立った。兎網を用意して、勢子たちは手ごろのこん棒を作った。旧の10月13日だった。畑のまわりに兎網をしかけて、兎の来るのを今か、今かと待っていた。

狐塚の話『山西の民話』の続きを読む

2018年「サマーフェスティバル in 塩手」

shiode5.jpg

 2018年8月12日2年ぶりに塩出池(津山市市場)で2018年「サマーフェスティバルin塩手」が開催されました。この日は、昼過ぎから雷を伴う雨が降り、花火大会もどうなるんだろうと心配しましたが、幸いにも花火が打ちあがるころの午後7時30分なると雨も止んで大勢の人が3000発の花火を楽しむことが出来ました。やっぱり、水中花火は幻想的で綺麗でした。

2018年「サマーフェスティバル in 塩手」の続きを読む

平尾家(武蔵の姉の嫁ぎ先の家)

musashi-yukari14.jpg

 ここは「元屋敷」と云う地名で町内で最も大きい茅葺きの家である。
 慶長5年(1600年)、武蔵が武者修行に出立した時、家の道具家の系図、十手(三つ)、すやりを姉おぎん夫婦に渡した。その後、元和9年(1623年)、おぎんの二男九郎兵衛景貞がここに居住し、武蔵家を相続した。
 庭の池水はその時作られた。辺には樹齢400年のタラヨウと樹齢300年のウツギの古木と屋敷の入口の樹齢300年の栗の巨木とがあり、さすがに武蔵にゆかりの深い平尾家らしい趣がある。
(文:美作市看板より)

平尾家(武蔵の姉の嫁ぎ先の家)の続きを読む

遊屋八幡神社(勝央町)

yuya34.jpg

由緒・沿革
八幡神社の創立
 旧高取五ヶ村の氏神「八幡神社の由緒書きによると、貞観2年(860年)に美作の国、勝田郡の人で大宅鷹守の子鷹取が備中権守に任命された時、貰った神功皇后のお腹帯と忍態皇子(応神天皇の第3皇子)の衣の袖を父の鷹取に贈ったところ、この親子が備中美作と、遠くは離れて住んでいるにもかかわらず、毎晩同じように八幡大神の夢を見るので「不思議なこともあるものだ、これはきっと神のお告げに違いない」と信じて宇佐八幡の神を黒坂の水清川の源である清野山(場所不明)に祀ったのが八幡神社の起源であるということです。(湯谷八幡神社)
 その後、天徳2年(958年)に再建され、永承3年(1048年)に源実朝が美作権守になって赴任した時、当時の神主である大杉次郎太夫が古殿を改築し、神楽殿を建立しました。

遊屋八幡神社(勝央町)の続きを読む

スイレンの花咲く衆楽園

suiren3.jpg

2018年6月16日の衆楽園のスイレンの花を観賞しようと来てみました。スイレンの花は昨年に比べ随分少なくなっていてすっきりとしていました。吸い込まれるような青空が映る池の中で時折鯉や亀が泳いでいるのがよく見えました。おまけに、オタマジャクシもわんさかいました。

スイレンの花咲く衆楽園の続きを読む