取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「橋」で検索した結果,355件の記事が見つかりました。

八出天満宮で合格祈願祭がありました。

goukakukigan1.jpg

 2020年1月13日、八出天満宮で合格祈願祭がありました。この日は青空の元朝早くから車で駆け付けた多くの受験生親子が訪れていました。受付をすますと順次拝殿に入り、吉田宮司からお札を受け取っていました。これから寒くなってきますので、体調に気を付けて受験に臨んでくださいね。どうぞご利益がありますように!
また、一日前の12日には境内でとんど焼きがあり、氏子の皆さんが家内安全を祈願しました。

八出天満宮で合格祈願祭がありました。の続きを読む

坪井本陣跡(今井醤油店)

t-fukumoto5.jpg

 作陽誌に「駅中(坪井宿)に太守茶屋あり」と記載されている。「太守」とは松江藩ではないかと思われる。
 新家家系図によると、新家源蔵のとき「雲州松江城主 松平出羽守より、坪井駅中(坪井宿)「脇本陣」を仰せ付けられ、兼ねて御用達御定宿を命じ、年給金百余両の金を給う。」とある。この時「菊屋」と称す。
 新家利右衛門の時「松平出羽守より改めて御本陣を仰せ付けられ苗字帯刀を給る。金子の外に千足を下し給う。」本陣を命じられたのは明和3年(1766)の頃と思われる。

坪井本陣跡(今井醤油店)の続きを読む

美作歴史ネットで訪ねた中世式内八社の秋祭り

omidou-s.jpg

 2019年度美作歴史ネット地域研修会のお誘いで真庭市社の「式内八社」について学んできました。
式内社:延長5年(927)に完成した『延喜式』第9・10巻「神名帳上下」に記載された神社。美作11座(10社)、備前26座(21社)、備中18座(18社)
美作の式内11座(一宮中山神社、二宮高野神社、三宮天石門別神社、社八社)
―中世の遺産・文化が色濃く残る社へ―
 山々に囲まれ、清らかな水が湧く、自然豊かな社地域は、まさに日本の原風景。そんな社地域には、神社や御堂、石造物、城跡などの歴史遺産が数多く点在しています。
 平安時代、醍醐天皇の命で編纂された『延喜式』に記載された重要な神社は、「式内社」と呼ばれていました。『延喜式』に記載された美作国11の式内社のうち、社地域にはじつに8つが集中しており、古代から神聖な場所とされてきました。中世以降にも多くの記録に記載され、古い形をとどめる祭りや行事も残っています。
「式内八社」とは佐波良・形部神社(県社)、二宮(長田、兎上、壱粟・大笹、久刀神社)、横見神社の8つの神社の通称です。(文:式内八社の里めぐりパンフレットより)2019年10月9日撮影

美作歴史ネットで訪ねた中世式内八社の秋祭りの続きを読む

2019 衆楽園の紅葉が美しい。

syurakuen11-20-10.jpg

 2019年11月20日の衆楽園の紅葉の様子です。
当日は晴れ時々曇りの天気で、時折太陽の光がさすとモミジの紅葉がより一層輝いて美しい公園です。
衆楽園は森家二代目藩主長継が1657年に京都から作庭師を招いて造らせた池泉廻遊式庭園で、国の名勝に指定されています。
津山城(鶴山公園)の紅葉もピークを迎えて美しい季節です。ぜひ、衆楽園にも足を延ばしてみてください。

2019 衆楽園の紅葉が美しい。の続きを読む

令和元年 出雲街道津山城東むかし町祭り

jyoto17.jpg

 2019年11月3日、今年も城東伝統的建造物群保存地区で、出雲街道津山城東むかし町祭りが執り行われました。このお祭りは、旧出雲街道を歩行者天国にし、「江戸時代にタイムスリップ」をコンセプトにした時代行列です。橋本町~東新町の区間では屋台や物産店、フリーマーケット等が出店されていて楽しんできました。また、「和っしょい!津山の総踊りが祭りをより一層盛り上げていました。

令和元年 出雲街道津山城東むかし町祭りの続きを読む

逧田の合祀されているお大師堂(福井)

yakushi-t6.jpg

 福井の片山・桑田集落の南には、広戸川が流れ、木造手すりの草町橋がかかっている。この草町橋を渡って、小峪に抜ける山道にさしかかった丘の上に、お大師堂が祀られている。
 ここら辺りは、逧田と言う地名であり、このお大師堂には、「勝南霊場第拾九番御本尊 薬師如来」の表札がある。一般に、お大師堂と言って、本尊に薬師様を祀っている事例が多い。正しく言うと、これは薬師堂である。お薬師様、すなわち薬師如来は、東方浄瑠璃世界に住んでいて、現世利益をはかる医薬に権威を持った仏様である。昔はとくに医療治療がままならなかった農民にとって、病気平癒・無病息災を願う気持ちは切実なものがあり、薬師如来にすがる信仰は、強いものがあった。
 この逧田のお大師堂の創建は不明だが、お大師信仰・八十八か寺巡りが盛んであった戦前の、昭和12年(1937年)に改築されている。だれがどのような協力のもとに建てたか、後年よくわかるように、金銭や人歩・資材の寄付録が、内部の壁に掲げてある。「薬師堂改築寄付録」(金銭寄付)では56名、「薬師堂改築寄付録 人歩及び材料」では、54名の住民の名前が記されており、小字部落の片山・桑田・小峪(以上、有為組)と岡・東岡・横尾(以上 三結団)が共同しての出資や奉仕により、再建したものである。また、昭和30年に屋根の葺き替えをしているが、この時も63名の住民の名が記されて、住民みんなこぞっての協力によるものであることがわかる。

逧田の合祀されているお大師堂(福井)の続きを読む

2019 徳守神社の秋季例大祭 並びに 御神幸

2019tokumori.JPG

 令和元年(2019)10月26日(土)、27日(日)の二日間にわたり、徳守神社の「秋季例大祭」が行われました。27日には、神様の御霊をお遷しした御神輿と共に「御神幸」が行われ、一日かけて氏子区域を練り歩きます。行列の途中には「お旅所」で祭典が行われ、浦安の舞、獅子舞の奉納がありました。26日は雨がパラついて心配しましたが、27日は良い天候に恵まれ大勢の方が集まって秋季例大祭を祝いました。

2019 徳守神社の秋季例大祭 並びに 御神幸の続きを読む

村境の道標と灯籠型の六体地蔵(福井)

tkuma3.jpg

田熊の大町・下木集落を真っすぐ南下すると、勝央町福吉に抜ける細い山道に入る。また、福井の片山集落から草町橋を渡って東に進むと、さらに細い山道があり、やがて田熊からの南下した道と出合う。福井からこの道は、さらに東進すれば、同じ福井分の離れ集落小峪と言われる戸数数軒の集落に行き着く。
 この2つの山道が出合った場所は、六道と言い、人里離れた山中であって、道の分岐点といえども道を尋ねる民家とてない。この位置に、津山では珍しい高さ1m余の六角灯籠型の六体地蔵があり、少し離れた東側の草むらに道標が残存している。長谷稲荷へ通じる道中でもあり、ここは福井分として、いまでも片山・桑田の住人により六体地蔵が祀られ、道路を含む周辺が整備されたりしている。
 道標は、文字が消えかかっているが、山石に次のように刻まれている。

(梵字) 右 たぐま 中 なら かうも ふくい 左 津山 道
    弘化 三年 丙午年 十月吉日 (弘化3年=1847年)
 道標は、昔は数多くあったが、今に現場に残る数少ない文化財と言えよう。

村境の道標と灯籠型の六体地蔵(福井)の続きを読む

皿川・広戸川に設置してある「ゴム堰」

fukudanoiseki1.jpg

 2019年7月3日皿川の近くを車で移動していて、ふと川を見ると珍しいものを発見して撮影して来ました。なんでも、ゴム堰と言われる種類の堰でめずらしいものです。ゴムのチューブに空気を入れて膨らませて水を堰き止めます。
 県民局の方にお聞きすると、平成10年の災害の時に固定堰があったのですが、皿川の流域が被災して堰があふれ大災害になったことで、固定堰をゴム堰に変えたそうです。(改修工事の一環として県が工事)水量が少ない時には、膨らませて水を取る、洪水で水位が上がった時には自動でしぼむ、そうすると水量が多く流れるので水が溢れないすぐれものだそうです。

皿川・広戸川に設置してある「ゴム堰」の続きを読む

餝摩津斉七塚・鶴亀神社(鶴坂)

餝摩津斉七塚5.jpg

 鶴坂の上り口にあり、寺城出身の力士の塚である。弘化4年(1847)の大坂番付に記載されている。本名は太田斉七といい、墓が寺城池の下にある。斉七塚のすぐ上は墓地になっており、疣神社、六体地蔵、供養碑がある。さらに進むと鶴坂の頂上付近の中国自動車道を横断する陸橋を渡るとすぐ左の小祠が鶴亀神社である。そばに三星城の家臣鶴之丞が妹亀の仇を討とうとしたが返り討ちに遭ったという哀話の説明板がある。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)

餝摩津斉七塚・鶴亀神社(鶴坂)の続きを読む