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取材記事内を検索ワード「街道」で検索した結果,236件の記事が見つかりました。

夜泣き地蔵(西吉田)

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 地蔵の前に3っの石塔があり、左の自然石には、正面に南無阿彌陀仏、享保11年(1726)年○月とあり、徳川吉宗の時代に建てられたと思います。右の石碑は、正面に奉納大乘妙典六十六部、右に、文化6年(1806年)2月とあります。六十六部とは、虚無僧のことで行者です、この行者が、地蔵を寄進したのではないかと推察できます。
昔からの言い伝えによると、後醍醐天皇が、この地を通られた時、夜泣きする赤ん坊の泣き声を耳にし、地蔵を作って祀るように、住人に伝えたのがきっかけで作られたと言われています。【津山朝日新聞社より】(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)

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役の行者供養石(金井)

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役の行者供養石(えんのぎょうしゃくようとう)安永3年(1774)
 道仙寺【東粟倉村・現在美作市後山】霊山後山を管理する真言宗の寺、後山では、行基・空海・宮本武蔵が修行したと伝えられています。
 その道仙寺の行者が行き倒れになって、ここに供養石を建て、金井の地区の人が年に一度参られています。(大崎公民館前)

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茶屋林道標(因幡街道)

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茶屋林道標(勝北町杉宮) 町文化財(石造物) 昭和50年4月1日指定
 茶屋林の旧国道沿いに立っている道標で、南面に 右金森山新善光寺道、西面に 左いなばみち、東面に 宝暦四(1754)五月吉日造之 と刻まれている。
 高さ85㎝ 巾17cm~18cm
 この道標のかたわらに、一本の根上りの大きな松があったが、マツクイムシの被害をうけて枯れる。
 むかし、津山から、勝北、奈義の村むらをとおり、黒尾峠を越えて鳥取に行く道は「因幡街道」と呼ばれ、このあたりは、街道を往来する人びとの憩いの場所でもあった。 

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津山城・津山の城下町

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津山城
 津山城は1604年(慶長9年)に着手され、13年後の1616年(元和2年)に完成しました。
 この場所は鶴山を中心とする一帯で、藩主にとっては城下町をつくり、常備軍をひざもとにおいて不意の戦争に備え、農民に対して武士の力強さを誇示できると同時に、藩内の統治にもっとも便利な場所として選定されたものと考えられます。
 形式は丘陵とそのふもとをとりいれた平山城で、縄張(郭.堀.城壁.虎口等の配置規模を決めること)は巧妙で、また施設も堅固にできており、本丸を守るためにとてもよく考えてつくられています。
 山頂に本丸を定め、その西部か堅固な石垣で区切って、ここを天守曲輪とし、中央に五層の天守閣が設けられています。その東側と本丸を東北に向けて強く張り出させたところには特に髙い石垣を築いて櫓を点在させています。また、北側の急斜面はこれを利用して坊塁を築き、東側のがけは急な勾配で宮川に面しているので、そのまま防備に利用されています。

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全国に知られた富豪「蔵合家」

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全国に知られた富豪「蔵合家」
 二階町をはじめ津山の城下町の成り立ちに深いかかわりをもったと思われる「蔵合家」について。
西側の家並の中で、現在の日専連ビルから北の中央病院の寮(旧電々局合)まで、二階町の表通りに面して日専連ビル、美作印刷、津山郵便局、津山中央病院寮が並んでいるが、江戸時代には蔵合家がここに居を構えていた。
「津山惣町改町」の二階町の項に、南から「西へ通る横丁あり。蔵合孫左衛門=表口23間、奥行17間、京町塩谷新兵衛持ち屋=表口4間半、奥行17間、白銀屋久兵衛=表口7間、奥行17間。西へ通る横丁あり」と記される。南の「西へ通る横丁あり」は日専連ビルの南側の通りで「馬方町」ともいわれる。次の「横町あり」は中央病院横で「八百屋町」と呼ばれていた通り。ともに舗装の下に元禄期の小路がそのまま息づく。
現在も家数は少ないが、元禄10年はわずかに3軒である。大半を「蔵合孫左衛門」の家で占め、表口は23間(約41㍍)である。

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津山と松尾芭蕉の縁

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 津山城(鶴山公園)に松尾芭蕉の句碑がある。津山と松尾芭蕉の縁を調べてみました。


 全国に知られた富豪で俳人でもあった蔵合の五代目孫左衛門直良は、元禄(1688-)から享保(1716-1734)年間頃、全盛を誇った蔵合家当主。西鶴が『日本永代蔵』にえがいたのも直良の時代と思われるが、芭蕉とも交友を結び俳人でもあった富豪の面影をしのばす。俳号は「推柳」という。句集『夢三年』(寛政12年、岡山の佐々木松雨が編集)の中に、芭蕉の友人・山口素堂の一文をのせている。その中に「津山の住、推柳子のもとへ赤木氏より、わが友芭蕉の翁が絵かきて自ら賛せるを送らせー」とあり、芭蕉と蔵合直良推柳の交友を窺わせる。芭蕉が送った自画賛については享保元年(1716)に、やはり芭蕉門の俳人・月空庵露川が門人の燕説を供に津山を訪れた時の紀行『西国曲』に次のように記されているという。紀行には蔵合の繁栄ぶりを示す記事もあり、西鶴の『日本永代蔵』をさらに裏付ける。(2015年4月21日撮影)


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津山市田熊字福本のなぞの石碑

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 私が長年気になっていた事で私の代に解決しておかないと誰も解らないままになると思い、里の家前の安藤きしこさんに力を借りて調べる事にしました。子どもの頃、父に連れられて行っていた「たばこ畑」のすぐ下に、椿の木と一緒に祠があったような気がします。(椿と石と石の間に祠があった?ような気がしていました。)今となっては、何年も祀られていない上に、椿の木は大きくなり、藤の木が覆い茂り、字も風化されて解りません。ただ、前の安藤きしこさんに聞けば、野田の人が多く参られていて、ここにお参りした後に岩黒城跡お大師様におまいりして、また帰られていたと聞きました。そして、上り口には石の段々があった。道の反対側には茶店があった。(現在は安藤きしこさん宅の畑になっている)。そして、この山が寺山と呼ばれていたそうです。

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JR西日本 津山口駅

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 津山口駅(つやまぐちえき)は岡山県津山市津山口にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)津山線の駅である。かつては、津山線の前身である中国鉄道が開通したときのターミナル駅であり、2面3線のホームを有していたため構内は広い。古いホームは一部残っている。
(2017年9月15日撮影)

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第28回 出雲街道津山城東むかし町

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 2017年11月5日の津山市は良いお天気になりました。午前10時~重要伝統的建造物群保存地区一帯で「第28回 出雲街道津山城東むかし町」が賑やかに催されました。
 このイベントは、昔ながらの町並みが今も残る城東地区一帯を会場としたイベントです。出雲街道沿いの1.2kmが歩行者天国となり、時代行列や消防音楽隊パレード、時代仮装行列など様々なイベントが催され道行く人を楽しませてくださいました。出雲街道に着物姿の人々が往来していたんだと思うとロマンがありますね。(2016年の様子

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箕作阮甫旧宅(西新町)

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 箕作家のルーツ:近江源氏の一族で、佐々木姓を名乗り、平安末期から戦国時代の終わりまで、守護・戦国大名として近江一帯を治めていた。室町時代に佐々木22代高頼の子で箕作山(現滋賀県五箇荘町)の城主であった定頼が箕作氏を名乗ったことにより、箕作家は始まる。
 箕作家は津山藩の医者でした。阮甫は西新町で生まれ、江戸へ出て宇田川玄真について洋学を学びました。洋学の翻訳にも力を注ぎ著書や訳書がたくさんあります。

 我が国最初の医学雑誌を発行したり、オランダ語の文法書を発行して学問の発展に貢献しました。

阮甫は生涯一医者にとどまらず、経済・天文・法学・地理・物理・兵学など洋学者として、広く学問を修め、幕府の外交政策等にかかわり、近代日本の文明開化の先がけとなった一人で多くの業績を残した。まさに郷土の誇りである。勿論日本の誇りでもある。(文:前回取材より)(2017年8月30日撮影)

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