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平成30年度津山洋学資料館秋季企画展 天を測り地を測る

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 「測量」という言葉は、「測天量地(天を測り、地を測る)」という中国の言葉に由来しているとされ、江戸時代には土地をはかることだけではなく、天をはかる天文学でも用いられていました。
 測量術と天文学は、どちらも古代に中国や朝鮮半島から知識が伝来しました。江戸時代になると、西洋からもたらされた知識や技術を取り入れ、相互に影響を与えながら大きく発展していきます。
 本展では、日本で初めて実測による日本地図を作成し、測量史に大きな足跡を残す伊能忠敬の没後200年を記念し、江戸時代における測量術と天文学の歴史をご紹介します。

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お竹明神『山西の民話』

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お竹明神
 私の家の近くの藪の中に小さな祠(ほこら)があって、水鉢や燈籠がそなわっていた。
 昔みんながお竹大明神といって、女の人が主に崇拝していたらしい。面白いことに、からす貝の大きいのを競争のようにしてお供え物を入れて供えてあった。また時には赤いべべを着せた人形が供えてあったので、確かに女の神様だったと思う。


 祖母の話では、旧の八月十五日、月夜の晩が夏祭りで、行燈や提灯をぶら下げて一晩中踊り狂ったもんだという。そのときの歌に「お竹さん、ぼんぼの毛江戸までとどくヨイショ、江戸の殿様およろこび、ヨイショ、ごほうびたくさんくだされた、ヨイショ、そりゃあ、ほんまによかったなー、ヨイショ。お竹さん、死んで三年たってから、明神様にまつられて、ヨイショ、ごりやくたくさんくだされる。ヨイショ」と、ひなびたふしの無いままの歌を歌っていたと祖母が話してくれた。
 そのお竹大明神のいわれを紹介する。

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龍になった長者の娘『山西の民話』

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 入日長者は、何不自由なく暮らしていたが、ただ一つ子どもに恵まれないのが悩みの種だった。
 長者は神仏に祈った。特にお伊勢様に女房と二人づれでまいり、三、七、二十一日の塩断をして祈願をした。そのかいあったのか、その年、娘の子が授かり翌年男の子が授かった。女の子には伊勢と名前をつけた。 伊勢はキリョウよしで、村中の評ばんの美人だった。大きくなるほど美しさを増した。所々方々から嫁にほしいと申し込みがあった。しかし伊勢は一向に耳をかさなかった。
 十九歳のとき、因幡の国の長者から縁談が持ち込まれた。父も母もこれには心がうごいた。伊勢にこの話をして、いやおうなしに承諾させた。長者の娘のためにたくさんな衣裳を作ってやった。結婚の日取りは三月ときめた。いよいよ鹿島立つ日、一行は長い長い行列であった。美しい衣裳をまとった伊勢は又一段と美しさを増した。伊勢が門口に立つと見送りの人達がいっせいに「ああ美しい」と感嘆の声をはなった。伊勢は駕籠に乗って家を出た。父も母もこれが見納めとは思わず、門口で見送った。

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ウタおばあさん奮斗記『山西の民話』

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 天保五年庚午の年、師走の十五日丑三つ時だった。慌ただしく戸を叩く音に、じいの種右衛門が目を覚まして出て来た。戸をあけると三人組の強盗が押入って来てすぐとっ捕まえられ、次ぎ次ぎに家人をおこして、みんな高手、小手にしばり上げられ、さる口輪をはめられた。家の中をあちこちと探り廻りめぼしい品物をみんな集めた。強盗は三人組であったが外にまだ何人かいるらしい様子だった。衣類や貴重品を出させたが、目ぼしい品物がなかった。蔵をあけて中の品物をとろうと思って、蔵の鍵を出させて蔵をあけようとしたが、この鍵は特殊な鍵で、コザルが五個合わないとあけられない。強盗はあせって誰かこの鍵で蔵をあける奴はいないかと言うた。その時ーウタおばあさんが「妾があけてあげる」といった。強盗はウタおばあさんをほどいて蔵につれていった。

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リオン(利音)柿の話 リオンさんの柿はなぜ渋い『山西の民話』

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 昔、私の家の近くの藪の中に、貧しい「サンド」の家があった。その家の裏に大きな柿の木があった。その下に小さな祠が今でも残っている。この祠と柿の木にまつわる話です。


 その昔、サンドの家の息子にリオン(利音)という変わった名前のいやしからぬ姿をした若者がいた。人の噂では、サンドが京へのぼった時、ある高貴な家の落し子をたのまれて連れて帰って育てたのだという。田舎者の目にはとてもハンサムな若者で、当然山西の若い娘たちの噂の種になったのも無理はない話である。分現者(ぶげんしゃ)の一人娘「お小夜」は深く心を寄せて、何かにつけて「リオンさん」「リオンさん」というようになった。いつの間にか二人は深い恋仲になっていた。娘は長者の一人娘、利音は貧しきサンドの子ーとうてい許される仲ではなかった。二人は思案の末、村芝居のある夜駆け落ちをして姿を消した。

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保田家の長屋(野村)

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2018年9月に保田家の長屋(ながや)を拝見して来ました。この長屋は、母家の西側から北側へとL字につながる建物が今も現存している旧家の長屋です。(2018年9月23日現在)


 保田氏について、ことわざに「野村の保田は總保田」と云う語があり、野村の保田一族が繁衍(はんえん=繁栄)の状態にあることを意味している。しかし、森家時代から里正(りせい=里の長)を勤め又、松平領になって中里正を勤めたと云い、美作百五十六舊家(きゅうか=由緒ある家)の中の一つで、その出自については明らかに武門の流れを引いていたと思われる。
 東作誌は野村の肝煮は保田氏平作、庄屋は同忠右衛
 大庄屋並と言われた市郎右衛門とは御家の定政(代々多く襲名)であろうか。保田家の墓は野村の片山の丘陵地庵山にある。菩提寺は天台宗金華山永案寺であったが、明治年間棄釈して神道となった。(文:大庄屋巡り―美作東部(加茂川流域)―より抜粋)

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2018年 尾所の桜の紅葉

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 2018年11月10日「尾所の桜」が紅葉した姿です。
阿波の尾所の桜の紅葉を見てこようと思いつき、午後も少し遅めに行って来ました。時折日がさす天候の中でしたが、夕暮れの尾所の桜も凛として存在感がありまたいいものです。
尾所の桜は推定樹齢560年もの長きにわたり何を見てきたのだろうか?阿波で暮らす人々の暮らしの移り変わりをじっと同じ場所で見続けてきたのだろう。これからも末永く見守り続けてほしいですね。

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出雲街道 津山城東むかし町 2018

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2018年11月4日(日)晴天の日に城東伝統的建造物群保存地区一帯で「出雲街道 津山城東むかし町」のイベントが執り行われました。当日は、橋本町~東新町の区間が歩行者天国となり、むかし町物産市やうまいもん屋台が出店して賑やかでした。通りを歩いていると、南京玉簾の皆さんとお会いしましたので記念に一枚写真を撮らせていただきました。笑顔がとてもいいですね。

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徳守神社の御例祭(秋祭り)2018

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徳守神社の秋祭りが2018年10月28日に盛大に執り行われました。
 当社の御例祭(秋祭り)は毎年10月の第四日曜日に執り行われます。御例祭とはこれまでご加護いただいた感謝を、これからもご加護いただく祈りを、徳守神社にお鎮まりになられている神々に最大の礼を尽くしてご祈願するその年最大のお祭りです。
この、御例祭の後には徳守様を大神輿にお遷り頂き、行列を組んで氏子町内を巡りますが、この一連の大祭りを親しみを込めて徳守祭りと古くから呼ばれており、津山市としては、津山祭りの一つとしても親しまれております。(文:徳守神社HPより転載

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飯山狐の話『山西の民話』

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 昔のことである。飯綱から飯山、加茂-物見-因幡にぬける道を「因幡街道(加茂街道)」といって、津山から因幡にぬける重要な道筋であった。御維新にならない前の頃だった。この街道を津山から加茂へ帰ろうと急いでいる一人の馬子がいた。道は夏目池の裏側を通って飯山の六本松のある観音様の所へ通りかかった。フト観音様のお堂のかげから女の人が出て来た。馬子はこんなにおそく観音様から若い女の人が出るなんて、と不思議に思った。 
 女の人は若い美しい娘だった。

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