鷹山の削平跡(楢)

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 鷹山に中世の城砦と思われる跡がある。
 加茂川沿いの近長道に接する鷹山の頂上は南から西、北と非常に眺望がよく、以前から村人のお花見場として親しまれていた。この山頂に削平された南北二段の平地がある。30㎝ほどの段差で上段南側は一辺約12mの方形、下段北側はやや広い不定形の平地である。尾根続きの40mほど東にも現在は墓地になっているが平坦地がある。ここから東に5、60mのところには尾根を馬の背のように削り出した通路が残っていて陸橋の跡である。なお東に続く尾根には土塁の跡を疑わせるところもあり、一帯が城砦の跡と思われる。

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 津山市史に、天正八年(1580)医王山の合戦の際、六月九日に「備前衆が二か所から討ち入り、美作の灘(津山市楢か)で合戦が始まった」とあり、また八月十五日、吉川元春は「灘表で備前衆を討伐したこと」を、籠城する湯原春綱に書を贈ったとある。(津山市史第二巻第五章「戦国の騒乱」P262・265)このことから、ここは医王山城の出城かと思われる。この山頂からは医王山を見通すことができ、三ツ星城を制圧した宇喜多勢が医王山城・矢筈城へ向かう経路にあたるので、ここに砦が造られたのではなかろうか。
 この鷹山は西が加茂川から直接切り立った崖で、北と南は斜面の麓は湿地が固めているので、東に続く尾根に防護の仕組みを設けて固めたのであろう。


 いまゴルフの練習場になっている才ノ峪の開発に伴う津山市の発掘調査の際、時代の異なる勝間田焼と見られる土器片が「2号墳東半削平箇所からその東、3号墳北側に多く発見された」と記録され、ここが何らかの中世の祭祀の遺跡であると記している。(津山市埋蔵文化財発掘調査報告第十八集「才ノ峪遺跡」・1985年)
 この地に続く楢村の集落を取り巻く低い丘陵は、鷹山の城砦に関わる何らかの遺跡があったと思われるが、昭和中期、住宅会社の開発工事によって地形が変わり今では遺跡は確認できない。

 ここに記載されている鎮守の「十寸鏡神社」は天照大神を斎神としており、古くからあった社を宝暦五年に新築して遷宮し、文政年間に再度改築遷宮していることが棟札からあきらかになっている。古来、神社は村の寄り合いが開かれる場でもあった。昭和中期まで現在の拝殿の東に籠もり殿、下の境内北側に催しをする社屋があった。
 以前は各村にいろいろな社や祠が散在し、村人の素朴な信仰の対象であったが、明治になって政府の一村一社の方針によってそれらの神々が一か所に合祀された。楢村も社殿の裏にこれらの小社(小宮)数社を並べ、巡拝経路がつくられている。その一つは前記地名で見たように荒神(スサノオノミコト)で、この社はかつて「さいかちやま」の高台にあった。今では「荒神社」の幟だけが公会堂の資料庫に残っている。そのほか稲荷大明神・愛宕神社・大津神社・恵美(比)寿神社(事代主命)・天神様・車戸神社・山神様などが小さな祠を並べている。

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 いま一つ稲荷大明神を祭った社が鷹(高)山にあり、「稲荷様」と呼んで楢村の商売繁盛の神として村の人たちに敬われていた。山の北面中腹に岩倉を背にして社がつくられ、西側の近長道から鳥居をくぐった参道が右折して二、三段の石段を上がるともう一つの鳥居がある。そこから15、6mの石段を上ったところに社がある。創設時期は明治の合祀以後と思われ、戦前までこの神社の祭日には太鼓を打ち鳴らし、景品付きの籤引きなどをして賑わっていた。村民が商売繁盛を祈願していたのである。今の社は残っているが、参詣する者はほとんどいない。ここは変成岩が露出していて、江戸期の川湊を中心に上下200mほどの護岸の石組みを造成するときの石の切り出し場であり、そこに稲荷大明神の社を設けたのである。
 ほかに小さな溜池が二つ、大足谷の「新池」と、野田谷の谷頭に「野田池」が残っていて、戦中までそれぞれの谷田を灌漑していた。今は谷田はないが、池はいまも水を湛えている。(文:『川湊 楢村』より)(2019年1月30日撮影)