六躰地蔵『山西の民話』

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 山西の村のはずれに六躰という所がある。何時の頃からそんな名前がついたのかだれも知らない。いたち道の細い道がいく重にもくねっている。その山道の背の窪みに小さな石の地蔵様が七つ並んで立っていらっしゃる。あまり信仰する人もないのか、ローソクも線香も見かけることは殆どない。
 今から百年程前のことである。山西に長という信仰心深いおばあさんと生という娘がいました。おばあさんは氏神様に日参二十一日は新善光寺、二十五日は天神様にお参りして帰りには飴玉やけし板を買って六躰のお地蔵様にお供えするのが楽しみであった。

 生は十六才である。出来のよい娘であるが、どうしたことか体が弱い、「ローガイ」という病気だ。いつもかがみ込んでコツコツと咳く。或る夏の夜、生は咳き込んだ。おばあさんは身も世もなく心を砕き一生懸命神佛に祈った。娘はいつの間にかスヤスヤ眠った。おばあさんもそこへ横になってうつらうつらしていた。ふと見ると蚊帳の中に六地蔵様が立ってござる。「娘よ心配するな、お前の啖も咳もみんなとってやるから」といって娘の背中をなぜて下さる。おばあさんは泣き乍ら娘を見るとスヤスヤと心地よげに眠っている。おばあさんは「六体様六体様」と声を上げておすがりした。


 生はそれから苦しみも咳もなく、安らかな日が続いたが、丁度三日目の夜、急に血をはいたが、苦しみもなく安らかな眠りに落ちた。長ばあさんはあまりのことに六躰様にお参りしてみると、一人のお地蔵様が真赤な血によごれてござる。
 ああ、そうだったのか。おばあさんはお地蔵様を自分の手拭いと前掛けで拭いて帰った。
 それからまもなくおばあさんは、小さなお地蔵様をお造りして勧請した。
 今も山西の六躰様は七体いらっしゃる。


山西村(詳しくは旧名苫田郡高野村大字高野山西、現在津山市高野山西)の昔の姿を伝えたい念願から、この稿を起こしたものである。
 老人の懐古趣味だと笑うだろうが、私も喜寿の齢ををこして、余命いくばくもなしと思うと、何かしら、山西村の文化遺産が消え去ろうとしている様な錯覚が出て、おしまれる様な気がしてならんので、思い出をつづりました。まだまだあると思うが、一応この辺で打ち切りました。
 これらの民話は、私の子どもの頃、祖母が折にふれて物語ってくれた話をもとにして書いたものである。大方の皆さんの御指導と御批判を頂きたいものである。          
1985年7月1日著者しるす。故高橋明治(たかはし・あけはる)/明治39年3月22日津山市高野山西生まれ