お竹明神『山西の民話』

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お竹明神
 私の家の近くの藪の中に小さな祠(ほこら)があって、水鉢や燈籠がそなわっていた。
 昔みんながお竹大明神といって、女の人が主に崇拝していたらしい。面白いことに、からす貝の大きいのを競争のようにしてお供え物を入れて供えてあった。また時には赤いべべを着せた人形が供えてあったので、確かに女の神様だったと思う。


 祖母の話では、旧の八月十五日、月夜の晩が夏祭りで、行燈や提灯をぶら下げて一晩中踊り狂ったもんだという。そのときの歌に「お竹さん、ぼんぼの毛江戸までとどくヨイショ、江戸の殿様およろこび、ヨイショ、ごほうびたくさんくだされた、ヨイショ、そりゃあ、ほんまによかったなー、ヨイショ。お竹さん、死んで三年たってから、明神様にまつられて、ヨイショ、ごりやくたくさんくだされる。ヨイショ」と、ひなびたふしの無いままの歌を歌っていたと祖母が話してくれた。
 そのお竹大明神のいわれを紹介する。


 その昔のこと、お竹さんは山西の長者の娘に生まれた。長者が一生懸命に神様に祈って生まれた、神様の申し子であったか、大変きれいで、気立てが優しい娘で、竹取物語の「かぐや姫」の再来かとみんなに噂されていました。この話がお殿様のお耳に入り、ぜひ御殿に上らせるようにと御召しが再三あった。親の長者は断りきれず御殿に上らせた。生来美しかったので、美しい衣裳をまとうと、まことに天女のように美しいとみんなが目をみはった。


 お竹が城中に上ると、一目見た上でお殿様のお気に入り「お竹」「お竹」と寸時も手離そうとなさらず、毎夜のおとぎを仰せつかったのでした。このことが奥方様の御勘気に触れ、奥方様のご機嫌は良くならずということでした。そのうちお殿様は参勤交代で江戸につめられることになりました。お殿様はぜひお竹を供の中に加えるよう御命令でしたが、奥方様の大反対で、仕方なくお竹は城中にとどまることになりました。その後、江戸のお殿様から度々江戸に来るようにとの手紙が届きましたが、奥方様はガンとしてお許しを出しませんでした。


 そうこうしているとき、江戸から早飛脚、お殿様の大患を伝えてきたのでした。お竹はお殿様の病気を心配して、三、七、二十一日の間、塩物を断って神仏に祈り、満願の日、大事な黒髪を切って一生懸命に祈念をしました。そのかいあったのか、お殿様は快方に向かわれて、お床払いができたとのお報せがお竹の元に届いた。お竹は喜んで、こんどこそは江戸に上ろうと決心しました。ちょうどそのころ、大奥の奥方様からお召があったので、お竹は良い報せかと思って心をはずませながら初めて大奥へ仕向しました。ところがどうでしょう。嫉妬に燃えた奥方は、美しいお竹の顔に煮えたぎるお湯をかけられた。これでお竹の形相は一変して、見るに見られない形相となったのでした。


 お竹は自分の部屋にもどって養生をしたが、顔形は一変して全く見てはおれない形相となってしまったのでした。悲しい、情けない姿となった自分の顔をみて、お竹はどんなにつらかったことでしょう。もう二度とお殿様と会わす顔でないことを悟ったお竹でした。そこで、せめても自分の志をお殿様に伝えたいと、山西から連れてきた女中頭の「おえい」と相談して自分の胸中を打ち明けました。


 それは、お竹の一番大事なものーお殿様が心から可愛がってくだされた女の生命であるもののおひげをそってお殿様にお詫びに差し上げたいと決意をもらして協力を頼んだ。お竹さんは七日間斎戒沐浴してきれいな身になり、女中頭の「おえい」の手で、おしものひげを一本残らずそり落して、桐の箱にていねいに納めて、使いの若侍に持たせて江戸のお殿様の元に送り届けた。このことをお殿様は大変喜ばれ、お竹の忠誠心にいたく心を打たれて、一度は黒髪を切り、またまた女の一番大事な所のおひげをそってまでも自分に仕えてくれる志にうたれ、早速に金子十両にお菓子箱をそえてお竹の元に送り届けられたとのこと。


 これがお竹大明神の生まれた始まり、歌に「お竹さんボンボの毛、江戸までとどく」と、当時の若侍たちの流行歌となったということである。
 森屋荒神は、室屋荒神がなまったもので、室屋とは殿様の室ということだろう。現在室屋という地名が残っている。


山西村(詳しくは旧名苫田郡高野村大字高野山西、現在津山市高野山西)の昔の姿を伝えたい念願から、この稿を起こしたものである。
 老人の懐古趣味だと笑うだろうが、私も喜寿の齢ををこして、余命いくばくもなしと思うと、何かしら、山西村の文化遺産が消え去ろうとしている様な錯覚が出て、おしまれる様な気がしてならんので、思い出をつづりました。まだまだあると思うが、一応この辺で打ち切りました。
 これらの民話は、私の子どもの頃、祖母が折にふれて物語ってくれた話をもとにして書いたものである。大方の皆さんの御指導と御批判を頂きたいものである。          
1985年7月1日著者しるす。故高橋明治(たかはし・あけはる)/明治39年3月22日津山市高野山西生まれ