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西今町

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 城下町建設当初は、町場ではなかったのですが、寛文年間(1661~1673)城下町に編入されました。古名を「茅町」といいましたが、編入時に改名したと伝えられています。東側を流れる川沿いの通りを藺田町(湯田まちともいう)と呼び、岡山往来の出発点として繁盛しました。西今町には、翁橋があります。これは、津山城下の西部を北から南へ流れる藺田川に架かる橋で、旧出雲街道筋にあたり東側に西の大番所がありました。翁橋は、国の登録有形文化財で「この建造物は貴重な国民的財産です」と記されています。その西側には、作州民芸館があります。この建物は、大正9年(1920)、旧土居銀行本店として建設されました。外観は正円アーチと直線で構成されるルネッサンス様式を基本にした建築物で、国の「登録有形文化財」になっています。

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安田橋

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 明治八年、東京に師範学校ができ、箕作秋坪が校長になったとき、秋坪は漢学の教授として津山から親せきに当たる大村桐陽(斐夫)をよんだ。この人にまつわることだが、安田伊太郎という津山の一人の青年が東京で雄飛しようと夢を抱いて、明治九年に上京した。しかし東京の風も甘くはなかった。アチコチ歩いて職を求めたが、思うようなものは見つからなかった。持って来たカネは使いはたす。そこで同郷の人、大村先生の門をたたいて、津山へ帰る路金の借用を申し入れたが、風体のよくない二十三歳の青年を見て信用しなかったようだ。一面識もないのだから無理もない。一度、二度、そして三度、大村先生の門をたたいて、やっと三円を借りることができた。こころざし破れて帰郷の途中、一面識もない人に低頭平身して、同国のよしみを訴え、わずかなカネを借りるとは、何とつまらないことか、これではいけない。大いに発奮して働き抜こうと決心した。

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和歌神社(一方)

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和歌神社の由来
 美作や久米のさら山さらさらに
  わが名は立てじよろづ代までに
 今から一千余年前清和天皇が即位されて最初の新嘗祭に神に供える穀物を奉納する国として美作の国が定められた。その貢物の献進に際し美作の国歌として奉唱したのがこの歌で古今和歌集にも記されている。以後、"久米のさら山"は一躍世に出て名所となり、やがて平安時代の和歌全盛期を迎えるにおよんで久米のさら山を詠んだ歌は数少なくはない。
 和歌神社はこうした和歌の歴史の残る久米のさら山を永く後世に伝えようと修理の太夫顯季卿が美作の国を治めていたとき和歌神をここに祭り和歌の宮と称したことに始まり久米郡誌にも載せられている通りの由緒ある神社である。
 なおこの神を敬い祀れば学問が大いに進むことから今では世にひろく崇められている。(文:境内案内より)

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津山藩江戸藩邸

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津山藩江戸藩邸
 江戸時代の大名は、参勤交代の制度によって、江戸と領国の二重生活を送ることになっていました。そのため、大名は江戸に屋敷を拝領し、多数の藩士が単身赴任の苦しさと、大消費都市江戸の享楽の同居する生活をしていました。
 津山松平藩は、美作国十万石を拝領して間もない元禄十一年(1698)九月、江戸の大火で藩邸を焼失してしまい、その代わりとして江戸城鍛冶橋門の内側に七千坪の敷地と金一万両を与えられ、以後ここを上屋敷として使用しました。この鍛冶橋藩邸は後に敷地が加えられ、最終的には一万二千坪ほどになっています。
 江戸の津山藩邸は鍛冶橋藩邸だけではなく、浜町の中屋敷、高田・深川の下屋敷などがあり、それぞれかなりの敷地を有していました。

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平成30年度津山洋学資料館秋季企画展 天を測り地を測る

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 「測量」という言葉は、「測天量地(天を測り、地を測る)」という中国の言葉に由来しているとされ、江戸時代には土地をはかることだけではなく、天をはかる天文学でも用いられていました。
 測量術と天文学は、どちらも古代に中国や朝鮮半島から知識が伝来しました。江戸時代になると、西洋からもたらされた知識や技術を取り入れ、相互に影響を与えながら大きく発展していきます。
 本展では、日本で初めて実測による日本地図を作成し、測量史に大きな足跡を残す伊能忠敬の没後200年を記念し、江戸時代における測量術と天文学の歴史をご紹介します。

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龍になった長者の娘『山西の民話』

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 入日長者は、何不自由なく暮らしていたが、ただ一つ子どもに恵まれないのが悩みの種だった。
 長者は神仏に祈った。特にお伊勢様に女房と二人づれでまいり、三、七、二十一日の塩断をして祈願をした。そのかいあったのか、その年、娘の子が授かり翌年男の子が授かった。女の子には伊勢と名前をつけた。 伊勢はキリョウよしで、村中の評ばんの美人だった。大きくなるほど美しさを増した。所々方々から嫁にほしいと申し込みがあった。しかし伊勢は一向に耳をかさなかった。
 十九歳のとき、因幡の国の長者から縁談が持ち込まれた。父も母もこれには心がうごいた。伊勢にこの話をして、いやおうなしに承諾させた。長者の娘のためにたくさんな衣裳を作ってやった。結婚の日取りは三月ときめた。いよいよ鹿島立つ日、一行は長い長い行列であった。美しい衣裳をまとった伊勢は又一段と美しさを増した。伊勢が門口に立つと見送りの人達がいっせいに「ああ美しい」と感嘆の声をはなった。伊勢は駕籠に乗って家を出た。父も母もこれが見納めとは思わず、門口で見送った。

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鎧のかかった梅の木

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 今から420年ばかり前、織田信長の勢いが中国地方に及んできた。当時、この美作では宇喜多勢と毛利勢がいたが、信長の将秀吉の誘いで宇喜多は秀吉側についた。そして、秀吉と宇喜多の毛利攻めが始まった。
 神楽尾城には、毛利の武将大蔵甚兵衛尚清が荒神山城をにらみ、荒神山城では、宇喜多の武将花房助兵衛職秀(もとひで)が神楽尾城を攻め落とそうとうかがっいていた。大蔵は真正面から戦っては、勝ち目がないと夜襲を計画したが密偵(スパイ)により先刻察知され荒神城城下に潜入したとき、不意に荒神山城の伏兵に襲われた。不意を突かれた神楽尾勢はなすところを知らず逃げ帰った。各所に潜んでいた荒神山勢は神楽尾城を目指して追撃し、逃げる神楽尾勢を次々と討ち取っていった。ついに、闇に乗じて神楽尾城に潜入し、城に火を放った。かくして、神楽尾城は落城となった。

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千場三郎左衛門の霊鬼

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 土居家四代七郎右衛門の頃に次々と不思議なことが起こった。人々は、これは千場三郎左衛門の祟りであろうと恐れおののいた。
 その一つとして村内にある家に13歳になる子供が長い間「おこり」を病んで寝ていた。
 ある日、子供が突然床の上に正座して「村の長(土居七郎右衛門※1)に言いたいことがある。急いで呼べ。」村の長が来ると「われは、千場三郎左衛門の霊魂だ。」と立派な武士の様子で語り始めた。
「かつて、神楽尾城に居った時、汝の祖土居四郎次郎とは刎頸(ふんけい※2)の交わりを結んでいた。

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ウタおばあさん奮斗記『山西の民話』

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 天保五年庚午の年、師走の十五日丑三つ時だった。慌ただしく戸を叩く音に、じいの種右衛門が目を覚まして出て来た。戸をあけると三人組の強盗が押入って来てすぐとっ捕まえられ、次ぎ次ぎに家人をおこして、みんな高手、小手にしばり上げられ、さる口輪をはめられた。家の中をあちこちと探り廻りめぼしい品物をみんな集めた。強盗は三人組であったが外にまだ何人かいるらしい様子だった。衣類や貴重品を出させたが、目ぼしい品物がなかった。蔵をあけて中の品物をとろうと思って、蔵の鍵を出させて蔵をあけようとしたが、この鍵は特殊な鍵で、コザルが五個合わないとあけられない。強盗はあせって誰かこの鍵で蔵をあける奴はいないかと言うた。その時ーウタおばあさんが「妾があけてあげる」といった。強盗はウタおばあさんをほどいて蔵につれていった。

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リオン(利音)柿の話 リオンさんの柿はなぜ渋い『山西の民話』

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 昔、私の家の近くの藪の中に、貧しい「サンド」の家があった。その家の裏に大きな柿の木があった。その下に小さな祠が今でも残っている。この祠と柿の木にまつわる話です。


 その昔、サンドの家の息子にリオン(利音)という変わった名前のいやしからぬ姿をした若者がいた。人の噂では、サンドが京へのぼった時、ある高貴な家の落し子をたのまれて連れて帰って育てたのだという。田舎者の目にはとてもハンサムな若者で、当然山西の若い娘たちの噂の種になったのも無理はない話である。分現者(ぶげんしゃ)の一人娘「お小夜」は深く心を寄せて、何かにつけて「リオンさん」「リオンさん」というようになった。いつの間にか二人は深い恋仲になっていた。娘は長者の一人娘、利音は貧しきサンドの子ーとうてい許される仲ではなかった。二人は思案の末、村芝居のある夜駆け落ちをして姿を消した。

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