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取材記事内を検索ワード「夏」で検索した結果,358件の記事が見つかりました。

衆楽園のスイレンの花

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2017年6月2日・19日に津山市山北にある衆楽園に立ち寄ってきました。今年は5月の後半から気温がうなぎのぼりで6月に入れば夏真っ盛りの様です。衆楽園のスイレンの花も昨年に比べ随分と手入れされていて鯉の泳ぐ姿があちこちに見えました。また、加茂からスケッチに来ていた元気な子ども達に声をかけるとはきはきとした返事に嬉しくなりました。ここは何度来てもいいなぁ~と思います。(2016年の様子です)(2014年の様子です)(2012年の様子です

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羽留石(はどめいし)

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 中山神社の北側を流れる鵜羽川に二抱えほどの大きな岩がある。
神社伝説によると「中山の神が霧山の磐座にいたとき、永代鎮座の場所を定める目的で鵜の羽を流し、止まった所に居を構える」とした。長良川の麓の石で止まり、『羽留石』として今でも里人の寄進による注連縄が張られている。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月1日取材)

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千年寺の石燈篭両基

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 長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山 市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。(撮影2017年4.月12日)(2014年の取材)

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出雲街道を歩く(河辺から津山城下)

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第110回 文化財めぐり 特別展「行列を組む武士たち」関連事業として、出雲街道を歩く(河辺から津山城下)が、2016年10月29日(10時20分~)津山郷土博物館主催であり参加して来ました。津山藩主の参勤交代には出雲街道が使われています。今回は河辺から津山城下までの出雲街道を歩いてきました。
ルート 河辺バス停前→河辺上之町→兼田橋→川﨑→玉琳→東松原→古林田→荒神曲り・大曲り→宮川大橋→京橋門跡「文:津山郷土博物館作成の当日配付資料より抜粋」

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【津山人】西東三鬼-俳句界の風雲児

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明治33(1900)年から昭和37(1962)年津山市南新座に生まれる。
 本名は齋藤敬直(さいとうけいちょく)。33歳の時、歯科医だった三鬼は患者達のすすめで俳句を始める。この時から使用したペンネームが「三鬼」で「サンキュー」をもじったものといわれている。
 35歳で代表作の「水枕ガバリと寒い海がある」を発表し新興俳句の有力な作家として認められたが、戦争一色となる社会情勢の中で、新興俳句は内容が革新的であることにより弾圧をうける。
 終戦後、俳句を再開した三鬼は、近代文学としての俳句の可能性を求め、俳句の復活を志した山口誓子とともに昭和23(1948年)「天狼」を創刊するなど俳句の復興に尽力。また、敗戦直後の混乱した時代に俳人が俳句で生計を立てていけるようにと現代俳句協会を創立。句集として「旗」、「空港」、「夜の桃」、「今日」、「変身」がある。
(掲載されている写真・文章等の著作権は津山瓦版または情報提供者に帰属し、一切の無断転載を禁じます。)

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鏡野八景 尊光院 圓通寺

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 高野山真言宗準別格本山尊光院圓通寺は、元総持院と号した。弘法大師帰朝後この美作の地に密教を広めるため、当山を建立したと伝えられる。
古来より西の高野また二ノ宮高野神社の奥の院と称せられたが、永禄年中福田玄蕃盛昌(毛利の武将)桝形城を築き、寺を外衛として軍士の大半を住居させた。よって城陥るに及び寺も全焼す。
時の院主成瑜法印焼趾に草庵をいとなみ法灯を守る。現在別所と称する土地で、広大な敷地跡があり、昭和二十二年「金銅仏」が掘り出された。
三十八世覚清上人檀越を説き、現在地へ再建された。
 津山森氏入封の後、当寺へ対する帰依浅からず寺領百石を寄進されている。四十七世秀範上人の時、再度焼失したが再建され、本堂の棟木に「寛延四年(一七五一)秀範七十二才これを建つ」の文字が見られ、現在の建物は二百四十数年の歴史を有す。
 近世の高僧として知られる竺道契・新弘栄師(両師に付いては岡山県大百科辞典参照)が住した。寺宝・文化財は数十点有する。(文:美作 高野山真言宗八十八ヶ所霊場HPより抜粋)(2016年12月25日撮影)

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修倫館道場趾と四季

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消えた武道場
昭和28年に全日本剣道連盟が組織され、武徳会が新しい姿となったが、剣道は終戦で一時ストップした。進駐軍が来るというので剣道用具をかくしたりしたこともある。しかし、別に禁止されたわけでもなく、学校が中止していたまでだが、一般の愛好者は鶴山公園で練習を続けていた。
 それが自治体警察の発足によって表面的にとりあげられるようになり、津山にも募金で鶴山武道場が建設された。ここで柔剣道が復活したのは28年であった。ところが、市役所税務課の火災により、武道場が仮庁舎になったまま忘れられ、津山の剣道界では、これほど盛んになっている剣道への理解がないと大いに不満をもらしている。ムリもないことで、一般の武道場はない。柔道の貝田道場、剣道の修倫館は共に個人の建設になるものである。しかし、学校では体育館を活用、少年剣道教室も毎日曜日にひらかれたり、中学校では教科に入ってスポーツの一角に日本の伝統を生かしている。

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三橋神社(小性町)

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 小性町の三橋神社は正徳2年(1717)9月29日に宇賀之魂命を勧請。天保8年(1837)に赤穂屋多十郎発起のもと社殿を改築し三端大明神と尊称。
 安政5年(1858)赤穂屋紋右衛門の寄進で屋根葺き替え、明治34年(1901)、江川|浅次郎発起で拝殿改修、更に昭和15年改築を行う。祭神の宇賀之魂命はいわゆるお稲荷さんで三橋家の屋敷神であったが、後に町内神として記られるようになった。所在:津山市小性町 祭新:宇賀之魂命(うがのみたまのみこと) 創建:正徳2年勧請
祭礼:夏祭 7/24 敬老祭 9/8 秋祭 10/24(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗)(2016年12月7日撮影)

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御倉稲荷神社(山下)

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 山下の津山保育園北側にある御倉稲荷。歴史は古<、森藩時代にこの辺りに藩の詰米御蔵があり、その守り神と
しての存在という。それゆえに「御倉」の名にその意義が伝わり残った。
稲荷信仰は平安初期に史上に現れたが、もとは農耕の神で、五穀を主宰する倉稲魂命(うかのみたまのみごと)を肥った。後世には地区の守護神として、また殖産の神としても栄えた。
所在:津山市山下 祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 創建:慶長年間(1596~1615)以降 祭礼:夏祭7/28
(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗)(2016年11月30日撮影)

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