お焚き上げ(読経供養)が清瀧寺でありました。
2018年11月21日午後1時より、津山市河面の清瀧寺さんで、仏壇や人形、神棚などの粗末にしてはいけないものを、感謝の気持ちを込めながら浄火して天に戻す「お焚き上げ」(読経供養)がありました。大きな仏壇や仏具、また仏像までが次々に焼かれていきました。また、読経やご詠歌が流れているなか、勢いよく燃えている炎をみていると神秘的な感じがしました。
2018年11月21日午後1時より、津山市河面の清瀧寺さんで、仏壇や人形、神棚などの粗末にしてはいけないものを、感謝の気持ちを込めながら浄火して天に戻す「お焚き上げ」(読経供養)がありました。大きな仏壇や仏具、また仏像までが次々に焼かれていきました。また、読経やご詠歌が流れているなか、勢いよく燃えている炎をみていると神秘的な感じがしました。
光井弥太郎尚常(河面村)
河面村は勝北郡に属し、北は近長村、南は福井村である。正保郷帳では田方五百三十三石余・畑方三十四石余。森藩断絶後、元禄十一年から幕府領となり、寛政六年から文化十四年迄は播磨国龍野藩預地、文政元年以降は再び津山藩領となる。現在は津山市河面である。勝北は美作国北東部にあって中世末には勝田郡と称していた。慶長五年小早川秀秋が入封して美作七郡を十二郡に再編したとき勝南・勝北に分けたとと云わる。郡境が明確にされたのは慶長検地によってであろうと云われる。元禄十一年以降は勝南・勝北郡として定着し、明治三十三年に合併して勝田郡となって郡名が消えた。
2017年4月8日・9日、東寺真言宗別格本山 墨池山清瀧寺(津山市河面)本尊「二十七面千手先眼観世音菩薩」33年ぶりの御開帳、並びに開創1200年記念法開会が盛大に執り行われました。当日はあいにくの曇り空でしたが、僧侶の皆さん、檀家の皆さん、多くの稚児さん達も近くの公会堂から本堂までを練り歩きました。また、記念法開の後、午後からは大柴燈護摩法会(火渡り行)がありました。9:00~16:00まで本尊様開扉がなされ、多くの参列者が参拝しました。
2013年11月30日(土)~2014年3月16日(日)【9時から17時(入館は16時30分)】
場 所:津山洋学資料館 ※問い合わせ:0868-23-3324(津山洋学資料館)
和算と言えば難解だと思われがちですが、それを昔の人はスイスイ難問を解いていたのですから偉いですよね。今よりはるか昔に杭などの測量器具で精密な計算ができた和算ってすごいですよね。測量器具の本物をこの機会に是非ご覧ください。
2013年2月3日(日)取材
福井の土居地区に、新宮城とかかわって、古い伝承をもつ歴史的にも貴重な観音様が現存している。場所は、火のかま古墳の南、谷をへだてた通称山田といわれる林の中の墓地群の一角にある。ブロックに囲まれた倉庫風の観音堂に安置されており、人よりも大きい、お堂にふつりあいな立派な十一面観音様である。
神宮山木下伝記によると、この観音様は、現福井八幡宮のできる以前に、その他に建立されていた宝昌山正伝寺ゆかりの本尊様と記されている。
そもそも、八幡宮の前身宝昌山正伝寺は、新宮城ができたとき、清瀧寺地鎮和尚の勧めで、城の真東に禍事を払い武運長久を守護するお寺として建立された。その本尊として、清瀧寺と同様の十一面千手観音が、京よりわざわざ仏師を呼び寄せて製作され、長元6年(1033年)盛大な祭祀でもって安置され、以後多数の人々の参詣で賑わっていた言う。
ところが、新宮城が落城した翌年の文治元年(1185年)、縁日の法要のさなか正伝寺が誇る五重の塔より出火し、お寺が全焼する大火となった。危うく本尊の観音様も焼失しそうになった時、熱心な信者により救われたと言う。
以下、その伝記の記述である。「宝昌山正伝寺観世音縁日にて例年の法会あり、多くの善男善女参詣の最中 九つ下り、五重の塔の中央火の室より突然出火してにわかに燃え上がる。衆人驚き消さんとすれど宝昌山には水乏しければ防ぐ便なく瞬く間に本堂に燃え移りたり。土居平の中に長く仲間奉公して居りたりし岡西喜六と呼びなす者、常に観世音に信心して今日も参詣し居りしに出火に驚き、尊き観音様を焼きては恐れ入ると、直ちに本堂に飛び込んで応援の諸人と厨子を担ぎ出し、暫して土居の畝へ持ち来たり菰を敷いて其の上にも菰をかけて当分雨露をしのぎ、その後粗末なる堂を建立し安置し奉り信仰するところより、霊験あらたかなれば平中の者も追々信仰し~明治維新の神仏混合引き分けの達しにて、西の丘の現在地に移転さられたり。なお、表柱の突石は、正伝寺の突き石にて蓮華形あり。」
▲東寺真言宗 清瀧寺本堂 天井の鳳凰図(2012年5月31日取材)
観音堂(本堂)の内部は華麗な装飾が施されています。天井は格子天井で、中央に算仙中村周介の描いた見事な鳳凰図が嵌め込まれています。
河面にある清瀧寺は、作州きっての古い真言宗のお寺である。(お寺シリーズ、レポート記事)
旧「岡山県勝田郡誌」(初版 大正元年)に、「本郡には役の小角夙に来り聖武の朝国分寺を建てられ又行基来り空海来り圓仁来り各寺院を創造す 故に古来巨刹多く宗派は真言を最多とす天台之に亞ぐ」と記述されているように、真言宗の清瀧寺は、まさに、弘法大師(空海)ゆかりの古刹とされている。
空海が唐の都長安で修行に励んだ寺は、青龍寺であり、ゆかりの寺院名称であるうえに、寺伝によると、平安時代初期の弘仁12年(821年)、嵯峨天皇が弘法大師に命ぜられて建立されたとされている。墨池山というのも、雨乞いの加持祈祷を行った弘法大師が、自らその筆を洗ったという「墨の池」も伝説にちなんでの山号であり、今も伝説の墨池という小池が残されている。
清瀧寺の往古は、広大な七堂伽藍をようして、多くの僧坊があり、西光寺・真福寺など7カ寺の末寺を持つほど栄えたらしいが、中世戦乱に巻き込まれ、やがて廃絶したと言われている。(2012.3.20)
広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑
広野保育園の南側で、南北に通じる市道福井線と、東西の旧真加部街道の接点に位置する道ベりに、地元の人が言う六部の碑が祀られている。
六部の碑とは、正しくは全国六十六部廻国供養塔のことである。世の平穏や民生の安定を願って、全国六十余州の有名社寺を行脚して、法華経札を納めて廻る遍歴の僧侶たちを本来、六十六部と称した。しかし、江戸末期には次第に大衆化して、村々を廻って戸口毎に拝み米や銭の御布施をもらって歩く、遍路姿の在家の巡礼者たちをも総称して六部と言うようになった。彼らは廻国道中に村人の協力を得て、往来の多い道筋あたりに、こうした供養塔を建立した。今日に残るあちこちの供養塔に六十六部の記名がある所以だが、近くでは、清瀧寺仁王門そばの廻国供養塔とおなじ類いである。
福井 古い伝承のある福井八幡宮1(2012年2月12日取材)
福井八幡宮は、自然の豊かな林に囲まれ、幅広い長い参道やよく整った境内、古い本殿や相応の拝殿の建物を有し、いかにも鎮守の森を思わせる神社である。しかしながら、道路から見えにくい離れた山中にあるため、地域の人以外は、その所在が知られていない。片山・桑田集落の南に広戸川が流れ、対岸に西から東へ川に沿ってなだらかな丘陵をなした山がある。その木立でおおわれている山の中腹に八幡様がある。
四つ立橋を渡り、福井大崎線から勝間田方面に抜ける道(工門勝央線)に入ると、直ぐに参道の入口があり、尾根つたいに3~400m参道を上ると、神社境内に達する。この道が単に参道ばかりでなく、田熊方面に抜ける山道であったことを物語る道標が、入口に半ば埋もれ今も残されている。
福井八幡宮の創設は古く、一説に平安時代、広山・田熊八幡と同様に、福井八幡宮は、清瀧寺本尊に対する南部の守護神として創設されたとも言われている。しかし、平安末期、新宮山に位置する新宮城とのかかわりのなかで、創設されたとの説が具体的で実証的である。