荒神社(小田中西松原)
小田中西松原の荒神社
小田中の西松原(小田中水道局の西)に荒神社があります。荒神社の由来など解らないので、町内の年配者の方にお聞きすると「子どもの頃よく遊んでいましたが、由緒などは解りません。覚えているのは境内には家はなくて広々としていました。また、鳥居の位置がその頃とは変わっていますし、今となっては詳しい事は誰も知らないんじゃないでしょうか。」と教えて下さいました。今でも年に2回ほど集まって祭礼をしておられるようです。(撮影:2019年3月2日)
小田中西松原の荒神社
小田中の西松原(小田中水道局の西)に荒神社があります。荒神社の由来など解らないので、町内の年配者の方にお聞きすると「子どもの頃よく遊んでいましたが、由緒などは解りません。覚えているのは境内には家はなくて広々としていました。また、鳥居の位置がその頃とは変わっていますし、今となっては詳しい事は誰も知らないんじゃないでしょうか。」と教えて下さいました。今でも年に2回ほど集まって祭礼をしておられるようです。(撮影:2019年3月2日)
横仙歌舞伎(よこせんかぶき) 横仙とは、奈義町の辺りを指す古い地名で「山の横」という意味。
那岐山の辺りは古くから横仙地方とよばれ、江戸時代末期(今から約200年前)から盛んに農村の楽しみとして地下芝居(地元の人々が行った素人芝居)が演じられてきました。兵庫県の播州歌舞伎などを地方の人々がまねてはじめたとされています。そして、源義経伝説を題材とした「義経千本桜」など多くの芝居が上演されました。地元の振付師の指導のもと、囃子、義太夫、役者も地元の保存会で担当し、芸を磨くとともに、県内外への出張公演や、こども歌舞伎教室などの後継者の育成にも積極的に取り組んでいます。(文:『守ろう地域の宝!民族芸能~美作編~』より)(平成31年4月29日撮影)
江戸時代の記録によれば「神田植(かみたうえ)」とよばれており、毎年5月5日に布施神社の境内で行われる豊作を祈る祭りです。「荒起こし」「しろかき」「くわじろ」「田植え」の神事が繰り広げられ、最後に殿様と従者(福太郎)が登場して、おもしろいしぐさを演じます。殿様と福太郎のかけあいがくり広げられ、見物人は笑いに包まれます。しかし、殿様は決して笑いません。「殿様が笑うと、その年は不作になる」と言われているからです。(文:『守ろう地域の宝!民族芸能~美作編~』より)(2019年5月5日撮影)岡山県重要民俗文化財
2019年4月21日に開かれた「第27回津山加茂郷フルマラソン全国大会」が開催されました。
夏の様な日になり、ランナーも汗びっしりで走っておられました。また、沿道では大勢の方たちが応援にかけつけてランナーに手を振っていました。ランナーの中にはいろいろと工夫を凝らして仮装をしていらっしゃる方も大勢いて楽しませてくださいましたが、この炎天下暑かっただろうな~と思いました。全国からお出での皆様、大会関係者の皆様お疲れ様でした。
小田中西松原の街道筋に「松尾芭蕉の句碑」が建立されています。
貞享2年(1685年)に詠まれた句で「雲折々ひとを休める月みかな」出典は『あつめ句』(自選句集)。
後の広場は、徳守神社の「西松原御旅所」です。( 撮影:2019年3月19日)
勝北町が文化財に指定し長く保存している天然記念物部門の中に同町大吉の真言宗・五穀寺の紅梅(平成二年五月二十八日指定)があります。
この紅梅は、寺の山門を入った左側にあり、根元の周囲は二・六m、地上一mのところで二つの枝に分かれ、南の枝が一・三m、北の枝が一・六m、高さは五mあり、樹齢は三百年(元禄時代、一六九〇年ごろ)と推定される老樹。
寺の伝えによれば、今からおよそ二百二十年前の享保年間に、五穀寺は火災にあったといわれ、紅梅の樹齢からみて、この大火を凌いだ記念の木ともいえる。
2018年11月20日、2019年2月24日の2回にわたり、美作国二宮の高野神社本殿(県重要文化財)の屋根銅板の葺き替え作業を見学させて頂きました。88年ぶりの修復工事とあって銅板は11,000枚が使われるそうです。また、銅板の一部には寄付者の名前が入っているそうです。
高野神社本殿(県指定) 津山市二宮にある高野神社は、美作国二宮として広く知られています。その本殿は、入母屋造・妻入を特徴とする中山造と呼ばれる様式の大型本殿で、寛文3年(1663)に、森藩2代藩主長継が再建しました。付属の釣殿も同時期の建築で、修理の手が入っているものの、近代初期の社殿が残されています。(上記写真は2019年2月24日撮影)
2019年3月7日のイナバ化粧品店の店内の様子です。
今日のお客様は背の高い男性の方が多く、パワーをあげようとママも背伸びしながらハグしておられました。また、写真を撮るときは「みんな背が高いなぁ~、私が埋もれてしまいそう、これからは写真を撮るときは台がいるわぁ~。」と、外は寒いけれど店内はあったかで賑やかなイナバ化粧品店内でした。
腹痛の神として信仰 病の武将助け祀る
勝北町羽賀の公会堂横に「梅の木神社」という小さなお社がある。この神社いわれは口伝えで定かではないが、遠く戦国時代、群雄が割拠しその攻防の争いはこの近辺でも繰り広げられた。その頃のある日、戦いに敗れ手傷を負った一武将がこの地へ落ちのびてきたそうである。
それをこの土地の人が気の毒に思って懇ろに介抱したが、その甲斐もなく亡くなってしまった。人々は、哀んで手厚く葬り、小さなお社を建て一本の梅の木を植えて供養したと言う。
江戸期以前の楢村についての記録はないが「穴塚」と呼ばれている古墳や、十寸鏡神社のある通称「宮山」に六基の小さな円墳が残っている。
穴塚は、小足谷の北の尾根に南向きに造られた円墳で、盛り土の径18m、奥行約10mの横穴式石室を持つ。この古墳については次の記録がある。
「石室幅約六尺、高さ五尺、奥行三十五尺、巨石を以て覆われ、円丘高さ約廿尺、径九十尺、古来から火の雨塚と呼ばれている。」