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取材記事内を検索ワード「橋」で検索した結果,358件の記事が見つかりました。

鏡野八景 尊光院 圓通寺

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 高野山真言宗準別格本山尊光院圓通寺は、元総持院と号した。弘法大師帰朝後この美作の地に密教を広めるため、当山を建立したと伝えられる。
古来より西の高野また二ノ宮高野神社の奥の院と称せられたが、永禄年中福田玄蕃盛昌(毛利の武将)桝形城を築き、寺を外衛として軍士の大半を住居させた。よって城陥るに及び寺も全焼す。
時の院主成瑜法印焼趾に草庵をいとなみ法灯を守る。現在別所と称する土地で、広大な敷地跡があり、昭和二十二年「金銅仏」が掘り出された。
三十八世覚清上人檀越を説き、現在地へ再建された。
 津山森氏入封の後、当寺へ対する帰依浅からず寺領百石を寄進されている。四十七世秀範上人の時、再度焼失したが再建され、本堂の棟木に「寛延四年(一七五一)秀範七十二才これを建つ」の文字が見られ、現在の建物は二百四十数年の歴史を有す。
 近世の高僧として知られる竺道契・新弘栄師(両師に付いては岡山県大百科辞典参照)が住した。寺宝・文化財は数十点有する。(文:美作 高野山真言宗八十八ヶ所霊場HPより抜粋)(2016年12月25日撮影)

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【津山人】 劇作家 山田美那子さん

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2016年9月10日アルネ・津山4階市立文化展示ホールで開催されている劇作家でイラストレーターの山田美那子さん(79)の初の個展みなこワールド「出雲街道むかし絵展」(主催:㈱ガット)の会場を尋ねて来ました。
 山田さんは、津山市生まれで城東地区育ちの生粋の津山っ子で、津山大好きさんでもあります。
文化庁主催の芸術祭の台本を多数執筆されています。また、津山城築城400年記念ミュージカル「石の記憶」で津山市文化功労賞を受賞されるとともに、ベネッセ奨励賞、福武文化奨励賞(現代文化部門)、さらには、くすのき賞を受賞されるなど精力的に活動を続けておられます。

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広島城(国の史跡)

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広島城は、現在の広島県広島市中区基町に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定されている。毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存し点在していたが、太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものである。(文:ウィキペディアより)(2016年12月31日撮影)

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『なつかしの津山Part2』池田泰弘切り絵展

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『なつかしの津山Part2』池田泰弘切り絵展が始まりました。
開催期間は2017年1月21日(土)~2月19日(日)までです。
江見写真館に残る大正期~昭和20年代までの貴重な津山の風景写真を、池田さんが色彩豊かな切り絵で再現しています。当時を知っている方も、知らない方も、なつかしい津山の町並にタイムスリップしたような気分になります。ぜひ、記念館で作品をご覧になってください。(2017年1月23日撮影)

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宮島の豊国神社(国重要文化財)

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豊国神社 [ほうこくじんじゃ] 国重要文化財
通称:千畳閣[せんじょうかく]
桁行13間約24m 梁間8間約15m 単層本瓦葺入母屋 木造の大経堂
豊臣秀吉公が、千部経の転読供養をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊[あんこくじえけい]に建立を命じましたが、秀吉の死により未完成のまま現在にいたっています。 明治時代に秀吉公と加藤清正公が祀られ、豊国神社となっています。
入母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことができ、軒瓦には金箔が押してあることから完成していれば、さぞや豪華な桃山文化を取り入れた大経堂になっていたと思われます。
また堂内には、大鳥居が明治8年に建替えられた時に使った尺定規があります。
本尊の釈迦如来[しゃかにょらい]・阿難尊者[あなんそんじゃ]・迦葉尊者[かしょうそんじゃ]は、明治維新の神仏分離令のときに大願寺に移されています。
(文:一般社団法人 宮島観光協会HPより抜粋)

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津山・美作の国いにしえギャラリー by 江見写真館(第1回 梶村邸)

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梶村家の歴史
 梶村家はもとの屋号を米屋といい、元禄年間(1695年頃)には出雲街道の南側に居住し、その後現在の地に住んだようである。
 宝暦年間(1760年頃)には山内屋と称しているが、商いは不明である。明和4年(1767)に「札元並」という町役に任命され、五人扶持、名字を許され茂渡藤右衛門と改名、その後数代にわたり「札元」を勤めている。
 梶村姓を名乗るのは明治4年(1871)からである。明治中期には平五郎が県会議員として県政に貢献し、銀行業務に尽くすかたわら和歌を得意とし明治42年(1909)の歌会始に入選するなど、美作地方の歌壇の発展に尽くした。また、長男良次もガス会社・製紙会社などの経営に活躍した。
 なお、平五郎などの和歌の活動の場となったのが、当家の後の果樹園に建っていた「千草舎」(ちぐさのや)と呼ばれていた庵である。そこで、このたびの修理で茶室にこの名を引き継いだ。
(文:梶村邸説明パネルより)(写真提供:江見写真館、※写真撮影の年代は全て賀陽宮様がお出でになった昭和6年のものだそうです。)※写真は「津山瓦版」のみ使用可です。

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保田×多胡談話(宇宙人はいる?いない?)

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 2015年8月11日に、スペインから一時帰国されていた保田扶佐子さんと、多胡昭彦さんをお尋ねして来ました。
多胡さんは保田さんのお姉さまと同級生でお二人とも以前からお知り合いと言うことで、お話もざっくばらんでとても面白く夢のある対談でした。
 多胡さんと言えば、10数個の彗星や新星の発見者でもあり、小惑星(7830)Akihikotagoに命名されているアマチュア天文家で有名です。また、保田さんは、バルセロナと日本を往復しながら、絵画、版画のほか、多くのアーティストブックで画家、詩人、作曲家たちと共同制作しておられます。
 多胡さん曰く、子ども達にガリバーの話をすると、眠たそうな子でも目が輝いてくるそうです。

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今井橋について(津山市)

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今井橋は、岡山県津山市を流れる吉井川に架けられた橋です。
旧今井橋之記
 境橋、今津屋橋の間の新橋を架設する事は住民が永く願望しており、当時姫津鉄道(現在の姫新線)の全面開通時期が迫るにあたって気運が高まりました。有志を募り期成同盟会を組織し、第一大谷土地区画整理組合と提携し、現実化に向け奔走している時、坪井町の今井壽恵氏が一万円を寄附し架設資金に充てられ完成しました。昭和十一年四月二十日開通の式典において姓を頂いて橋名としました。此処に栄誉を称え記念碑を設置し後世に伝えます。(記念銅版より抜粋)

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三橋神社(小性町)

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 小性町の三橋神社は正徳2年(1717)9月29日に宇賀之魂命を勧請。天保8年(1837)に赤穂屋多十郎発起のもと社殿を改築し三端大明神と尊称。
 安政5年(1858)赤穂屋紋右衛門の寄進で屋根葺き替え、明治34年(1901)、江川|浅次郎発起で拝殿改修、更に昭和15年改築を行う。祭神の宇賀之魂命はいわゆるお稲荷さんで三橋家の屋敷神であったが、後に町内神として記られるようになった。所在:津山市小性町 祭新:宇賀之魂命(うがのみたまのみこと) 創建:正徳2年勧請
祭礼:夏祭 7/24 敬老祭 9/8 秋祭 10/24(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗)(2016年12月7日撮影)

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三橋神社(船頭町)

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船頭町の三橋神社と小性町の同名神社は夫婦神社で、元々一つの神社ではないかといわれているが定かではない。
船頭町の三橋神社は寛文3年(1633)勧請され文政年聞になって表門が設けられた。
船頭町の由来は、森氏がこの町の人に年貢米や諸物資の運搬の任にあたらせたのが、町名の由来である。
高瀬舟は、津山舟54隻、長岡舟(八出~柵原)116隻、備前田原舟(和気町)16隻の計186隻が出入りしていた。
橋の上手(東方)には、番所、制札場、高灯龍があった。今津屋橋を架設した今津屋平蔵は、明和元年(1764)に蔵元になったと伝えられている。明治になり交通や営業に制限がなくなり高瀬舟は増加し、船の数は209隻を数えた。しかし、明治31年(1898)に中国鉄道が津山(現津山口)~岡山が開通。以後、高瀬舟は急速に衰退していった。

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