朝吉神社(上村字王子屋敷)
「加茂町史」によれば、もとは若王子権現と唱え、勝加茂西上(現上村)・勝加茂東原(現原)・勝加茂東坂上(現坂上)の三ヶ村の産土神で、文暦元年創建と伝えられ、明治のはじめにいまの社号に改めました。神社明細帳や明治以降の文献では祭神を下照姫命としています。(勝北町誌「神社と寺院」より)2012年10月25日取材
「加茂町史」によれば、もとは若王子権現と唱え、勝加茂西上(現上村)・勝加茂東原(現原)・勝加茂東坂上(現坂上)の三ヶ村の産土神で、文暦元年創建と伝えられ、明治のはじめにいまの社号に改めました。神社明細帳や明治以降の文献では祭神を下照姫命としています。(勝北町誌「神社と寺院」より)2012年10月25日取材
寄松の米井知博宅の北側の坂道を上ると、道の両側に灯籠が建っている。灯籠には「奉燈 氏子中」、別面に「安政二乙卯年」と記されていて、1855年の建立である。
建立当時には近くに寄松神社があったが、東作誌によると当時から杉森神社(現在の高倉神社)は下高倉村東分と西分の氏神であった。また、この道は若林を越し宮東を経て杉森神社に通ずる道で、東分の上塩を除く各部落からの参道に当たる。このことから、灯籠は杉森神社への奉燈で、下高倉村東分の氏子が西分との境界に近いこの位置に建てたものと考えられる。(文:高倉の歴史と文化財より)
寄松(よりまつ)の米井瑞臣宅の裏の坂道を上ると、右側の原野に二つの石塔が並んでいる。手前が牛神宮で奥が愛宕大権現である。
牛神宮の石塔には、「享和二壬戌年(1802)九月吉日建立」とある。正月のやれぼう(1月11日の農家の仕事始め)には近くの農家が牛を連れて参拝していた。周辺の字名は「牛神」となっている。
愛宕大権現の建立は「慶応元乙丑年(1865)七月吉日 寄松組中」と記されている。愛宕大権現は火よけの神として崇(あが)められ、寄松組合では毎年秋の道作りの日に御神酒を供えて火の用心を祈っている。(文:高倉の歴史と文化財より)
長者池跡 右上の団地のところに堤があった。
下高倉東の字長者池がその場所です。下高倉西の字長者池の丘陵と飯山山塊(さんかい)が接した所、下高倉西グリーンタウンの北側に堤がありました。北の端については、揚舟から後山に通じる一宮街道の北側の出張川(でばりがわ)から東が字揚舟で、西側の丘陵が字池峪、一宮街道の南の広い田んぼを「池ノ内田んぼ」と呼んでいることから、北の端はこの一宮街道あたりまでで、南北800mの大きな池であったと思われます。
長者久作が住んでいた時代から400年後の宝暦5年(1755)に、長者池を廃して代わりに飯山池を造った記録がありますので、北の方が埋もれて水田に変わり狭くなった長者池(現在の字長者池内)が、この頃まで山西村の灌漑(かんがい)用水池として役立っていたことがうかがえます。
(2013年3月21日・6月13日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)
広域農道の宮東バス停留場の東の堀切に架かった陸橋の北側に毘沙門天堂がある。古くは現敷地の南側にあったが、広域農道工事のため昭和49年4月現位置に新築移転した。
このお堂は「寄松山多聞寺が焼かれた後、北之坊因明であった芦田新介が、焦土と化した境内の一隅に一宇(いちう)を建て、毘沙門天の仏像を安置して守護本尊とし、崇拝祭祀した」と伝えられている。建立は室町時代の嘉吉(かきつ)年間(1441~1444)、建っている場所は寄松山多聞寺(きしょうざんたもんじ)北之坊があったところと推察できる。
向原(むかいばら)から東に一宮街道の坂道を上りきったところが、野村(のむら)と下高倉東の境に当たる揚舟(あげふね)の四辻である。この四辻の西北に見える山の頂に「鐘馗神」(しょうきじん)と呼ばれる自然石の塔が建っている。また四辻には「左一の宮・大たい寺」と記された道標がある。
石塔の真中に、虎とその上に立つ鐘馗大神の姿が彫られていて、右側に「鐘馗大神 虎」、左側には「永口三月十五日延月」と刻まれている。裏面には、中央に「大日本国中口口成就」右に「天下太平十干之氏子息災延命」、左に「国土安全而牛馬安全」とある。
「永口の3月15日に延月が建てた」と見えるが、地元に伝わる話はない。現在は揚舟・向原組合が管理し祀っている。
2013年5月3日のグラスハウス南側にある藤棚です。ここからはグラスハウスの温水プールや周りの景色が新緑の風になびいています。ベビーカーを押しながら坂道を上がって来られた若いおかあさんもいらっしゃいました。2010年の様子はこちら
第9回 院庄たかのりまつりが、平成25年4月14日(日)(午前8時~午後4時)作楽神社 境内で執り行われました。雨天決行
「例祭」というのは、神社でいちばん大切なお祭りで、たいていのお宮の秋祭りがそれにあたります。作楽神社の例祭は春で、4月22日と定められています。
後醍醐天皇が院庄館にお着きになり、児島高徳公が桜の幹に十字の詩を記されたのが元弘2年3月17日、それを陽暦に換算して4月22日が由緒のある日として例祭日になりました。しかし、諸般の事情から今は4月第2日曜日に例祭を行って
います。
今年は、和太鼓・剣詩舞・詩吟・銭太鼓・琴・尺八・日本舞踊などなど盛りだくさんのイベントと、津山西中学校吹奏楽部のガレージセールや、剣道奉納大会、つきたて餅、焼きそば、最後にはお餅・お菓子まきがありました。
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田熊の水田地帯の中ほどに、祇園様が祀られている。構造改善事業で区画整理されている広々とした田んぼの中に、一画だけ2~3の樹木に鳥居と小祠の祭祀場所があるため、遠くからでもすぐ見つけられる。
祇園様といえば、誰しも京都の祇園祭を連想するように、祇園祭を行う八坂神社から、この神様=牛頭天王を勧請したものであることは明らかである。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)2012年8月お涼み
首切り地蔵 下高倉西字輿曽乢(よそだわ)
広域農道ができるまでは、岩端池から一宮街道を西に行き坂道を登った峠の上に首切り地蔵があった。この道は高倉から津山に行く主要な道路であったが、高倉の道は雨が降るとぬかるみとなり、ここで泥を落とし一休みして、お地蔵さんを拝んで通っていた。1982年、広域農道建設に伴いお地蔵さんは少し移転され、現在谷口家の墓所の一角にねんごろに祀られている。(文:高倉の歴史と文化財より)2012.12.16取材