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取材記事内を検索ワード「池」で検索した結果,313件の記事が見つかりました。

毘沙門天堂(下高倉東字寄松)

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 広域農道の宮東バス停留場の東の堀切に架かった陸橋の北側に毘沙門天堂がある。古くは現敷地の南側にあったが、広域農道工事のため昭和49年4月現位置に新築移転した。

 このお堂は「寄松山多聞寺が焼かれた後、北之坊因明であった芦田新介が、焦土と化した境内の一隅に一宇(いちう)を建て、毘沙門天の仏像を安置して守護本尊とし、崇拝祭祀した」と伝えられている。建立は室町時代の嘉吉(かきつ)年間(1441~1444)、建っている場所は寄松山多聞寺(きしょうざんたもんじ)北之坊があったところと推察できる。

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勝部神社(津山市勝部)

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勝部神社について
一(名前について)
昔は様々な仕事に其の職種ごとに名前があり、住む地域も決められていました。今もその名残として、それらの仕事に従事していた地域の名前が残されています。(綾部、倭部(志戸部)等
「勝部」というのは、勾玉、玉、鏡など研磨する仕事をさし、一説には様々な職能集団の長(統括者)的役割を担うとも言われています。
「勝」とは、磨くという意味があり。この地域には、そういう職種の人がいた場所であり
「五十年程前には、東地区の池付近で水晶を取った事がある」と言う方も居られ、産出もしていたのではと考えられます。

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【津山人】 米井源治郎之碑(下高倉東上塩)

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麒麟ビールの初代社長 米井源治郎之碑(2013年4月10日取材)

 上塩池西側の米井澄近宅沿いに「米井源次郎之碑」がある。蘭学者で医者の仁木永祐が籾保村に開いた籾山校に学び、上京して慶應義塾を卒業後、財界人として明治時代の近代国家確立の一翼を担った米井源治郎の功績を称えるために、生家の当主澄近氏が平成6年(1994)3月に建立した碑である。


 文久元年9月16日下高倉東1723番地に米井仲平の次男として誕生、蘭学者 仁木永祐氏の籾山校に学ぶ。後津山藩の豪商磯野氏の世話になり、慶応義塾に学び明治18年3月同校を卒業。後 磯野商店の大番頭として活躍。三菱銀行岩崎久彌氏に信頼され、麒麟ビール、明治ゴム、株式会社ヨネイ等の社長を努めると共に明治屋(旧磯野商店)二代目社長をも努めた。
 行年59才 葬儀には、天台宗の大僧正をはじめ多くの政界人や財界人が参列した。(文:米井源次郎之碑より)

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【津山人】国画会会員の画家 植月正紀さん

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津山市在住の国画会会員の画家植月正紀さん(76)は、昭和39年の国展入選を皮切りに中央画壇で活躍。(国展審査員歴40年以上続けておられます。)2010年にはスペインにある芸術家審査機関・AMSC(アートメゾン美術評論家選考委員会)が選出する最も評価すべき芸術家の一人として、「スペイン顕彰賞」を受賞したり、2012年フランス芸術委員会・評議員からフランス芸術最高勲章受賞、イタリア・ローマグレゴリアン大学名誉作家やキューバ芸術文化名誉大使に認定されるなど、海外からの評価が高い。(2013年4月9日取材) 2013年7月10日~植月正紀絵画展(喜寿記念展)はこちらをご覧ください。

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天津神社(津山市西上妙見)

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天津神社
西上妙見にあり、祭神は天御中主命をまつる。神社創立の年月は明らかではないが、宝暦九年土浦領内吉野郡下町陣屋への指出し文書及び「東作誌」の中にも記されている。当社は八幡神社へ大正三年に合祀されるまでは新井のまつりの際には、神輿を奉じて山形字稲野塚へ神幸が行われていた。(勝北町誌・歴史めぐりより)2012.12.13取材
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寂静山 教本寺跡(下高倉西)

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寂静山 教本寺跡
 下高倉西二区公会堂から北北東に約200mのところに「宗祖見眞大師650回忌法要記念碑」がある。この道を隔てた北側が教本寺の跡地である。寂静山教本寺は天正2年9月(1574)に真言宗備永寺として建立された。
その後、享保14年(1729)、備前守右近正広入道の時代に浄土真宗に改宗された。明治26年、12代導隆のときに本堂が再建され、13代導徹も引き続き寺院の整備につとめ門徒数も増加した。当時お寺の縁日には地元の高倉をはじめ、遠方からも大勢の参拝者が続き賑わっていた。

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続 「なつかしの津山」池田泰弘きり絵展

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「なつかしの津山」池田泰弘きり絵展 3月1日(金)~3月24日(日)

江見写真館に残る昔の津山の風景を、池田さんがきり絵で表現した作品展です。
昭和初期のモノクロームの風景が、池田さんの感性により色彩豊かなきり絵作品になりました。津山の風景を知っている方から、若い方まで楽しめる作品展です。

棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)

入場料:無料(2F常設展をご覧いただく場合は500円となります。)2013年3月15日(金)取材

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「なつかしの津山」池田泰弘きり絵展

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「なつかしの津山」池田泰弘きり絵展 3月1日(金)~3月24日(日)

江見写真館に残る昔の津山の風景を、池田さんがきり絵で表現した作品展です。
昭和初期のモノクロームの風景が、池田さんの感性により色彩豊かなきり絵作品になりました。津山の風景を知っている方から、若い方まで楽しめる作品展です。まぁ~、気が遠くなるほど細かい作業です。是非、ご自分の目でお確かめ下さい。オススメです。

棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)

入場料:無料(2F常設展をご覧いただく場合は500円となります。)2013年3月1日(金)取材

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安藤幸夫さん(刀銘 広清)県重要無形文化財

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 安藤幸夫(刀銘広清)さんは、昭和22年2月4日津山市福井生まれ、東京でコック(札幌オリンピックにも関わる)をしながら、昭和40年鎌倉市の研師西村勝政に入門し砥の勉強をしていたそうです。子どもの頃から刀が好きだったので砥をやったが、終始一貫して出来るということで、昭和47年に刀匠(刀匠 小林康宏氏に師事。8年間の修業を経て文化庁から刀匠の認可を受けた。56年郷里の津山に帰り、本格的に作刀を始めたのだそうです。同57年には新作名刀展に初入選する。以後、連続して入選する。

<以下の文章は津山市広報から抜粋>
 日本刀は月に2本しか作ることが許されていませんが、その少ない機会の中で、様々な鉄を使って、研究を重ねています。特に江戸時代以前の鉄砲や釘などの古鉄を探し、鋼に仕立て直し材料にしています。大変手間が掛かり、ほかの刀匠は嫌がりますが、この手間こそが現代に名刀を蘇らせるのだと思っています。
技術というものは、いったん失われてしまうと、蘇らせるのに百年は掛かるものです。ほんの一瞬のことで次の世代に伝統が伝わらなくなってしまう。そんな失われた幻の古刀を自分の手で再現したい。

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首切り地蔵 下高倉西字輿曽乢(よそだわ)

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首切り地蔵 下高倉西字輿曽乢(よそだわ)
 広域農道ができるまでは、岩端池から一宮街道を西に行き坂道を登った峠の上に首切り地蔵があった。この道は高倉から津山に行く主要な道路であったが、高倉の道は雨が降るとぬかるみとなり、ここで泥を落とし一休みして、お地蔵さんを拝んで通っていた。1982年、広域農道建設に伴いお地蔵さんは少し移転され、現在谷口家の墓所の一角にねんごろに祀られている。(文:高倉の歴史と文化財より)2012.12.16取材

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