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2020年の徳守神社で初詣

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 2020年(令和2)を迎えた徳守神社の初詣風景です。
小田中笠松のカウントダウン花火を見てからすぐ徳守神社に初詣に行きました。令和になって初めての初詣を迎える徳守神社では、すでに境内入口の鳥居手前から拝殿参拝客が行列となっていました。境内を見渡してみると若者が多いことに気が付きます。そして、おみくじを引く所も多くの若者でいっぱいでした。若者に人気のある徳守神社です。

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数珠回しなどの伝統行事を行う平安時代末期のお堂

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大御堂 -おみどうー
 大御堂が創建されたのは、寿永4年(1185)と伝わりますが、定かではありません。2018年度に実施した放射性炭素年代法による測定で、部材の一部は、12世紀末、平安時代後期に伐採されたものであることがわかりました。岡山県内最古の木材を使った建造物ということになります。
 当時、大御堂ほど大きいお堂を村だけで作ったとは考えにくく、京都の仁和寺の資本が入って建てられたものと思われます。また、大御堂は現在、「堂ノワキ」という場所に位置し、北側に「堂ノモト」という地名があることから、本来は現在地のやや北へ建てられていた可能性があります。
 建築された当初は、一辺が8間(約14.5m)あったものの、その後、江戸時代初期に3間に縮められたとも伝えられます。現在は吹き抜けですが、柱には、かつて板戸で仕切られていたことを示す跡が残されており、幾度かの再建・修復を繰り返しているものの、部材には室町時代以前に遡る古材も多く残されています。(文:真庭市観光協会HPより)(2019年10月9日撮影)

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美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」

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福島善兵衛 大庭郡目木村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 福島氏は、もともとは鎌倉幕府のもとで、伊豆福島郷に居を構え北條高時(1303-1333)代に故えあって四国土州七條公に仕え、土州安芸郡、讃州三野郡託間塩生構城・豫洲国分寺金甲山居たと伝えられる。享徳3(1454)年長宗我部元影により落城となる。一族を連れて安芸を経由して、美作の国勝山高田城の三浦氏を頼り作州の地につき、三浦氏に仕えたことに始まる。・・・19代一信(伊織介)の時。
文亀年間(1501ー1503)高田城三浦貞連の元で、山名右近亮の守護する篠向城を陥落させ城代として入城した。以来、21代玄蕃允 一盛(-1526)、22代玄蕃允 満則(-1548)、23代玄蕃 盛親(一則)-1584)75年間 篠向城を守護した。(23代玄蕃一則を目木構の祖とする)
天正4年(1576年)毛利・宇喜多連合軍により勝山高田城主三浦が滅ぶ。福島・金田が守護していた篠向城も陥落し、城から逃れていたが、宇喜多の家臣・江原氏に仕えた。福島盛親(玄蕃一則)の子・七郎右衛門は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従い帰国後高麗犬を米来神社に寄進した。城主江原は釜山で病没し、その後関ケ原の戦いで西軍が負け宇喜多は改易され、福島、金田も帰農した。
江戸時代に入り、森藩により、大庄屋となる。

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美作歴史ネットで訪ねた中世式内八社の秋祭り

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 2019年度美作歴史ネット地域研修会のお誘いで真庭市社の「式内八社」について学んできました。
式内社:延長5年(927)に完成した『延喜式』第9・10巻「神名帳上下」に記載された神社。美作11座(10社)、備前26座(21社)、備中18座(18社)
美作の式内11座(一宮中山神社、二宮高野神社、三宮天石門別神社、社八社)
―中世の遺産・文化が色濃く残る社へ―
 山々に囲まれ、清らかな水が湧く、自然豊かな社地域は、まさに日本の原風景。そんな社地域には、神社や御堂、石造物、城跡などの歴史遺産が数多く点在しています。
 平安時代、醍醐天皇の命で編纂された『延喜式』に記載された重要な神社は、「式内社」と呼ばれていました。『延喜式』に記載された美作国11の式内社のうち、社地域にはじつに8つが集中しており、古代から神聖な場所とされてきました。中世以降にも多くの記録に記載され、古い形をとどめる祭りや行事も残っています。
「式内八社」とは佐波良・形部神社(県社)、二宮(長田、兎上、壱粟・大笹、久刀神社)、横見神社の8つの神社の通称です。(文:式内八社の里めぐりパンフレットより)2019年10月9日撮影

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金龍山普陀洛院 見正寺(勝央町)

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第十二番 金龍山普陀洛院 見正寺
 当山開山の源は弘仁十五年(824)、諸国を行脚し、御修行中の弘法大師よりお告げを受けた、海圓上人の開創と伝えられています。
 寺号はお大師様直々の命名によるもので、向かい側の神山愛宕山から眺める威容は「正に金の龍を見る如し」という意味を以て、金龍山見正寺と授けられ、本尊は正観世音菩薩です。
 寛永年間においては、国主・森忠正公の一周忌法要を奉修し、その深夜諸堂を焼失しましたが、寺社奉行より再建料年貢米を下腸され、僅か二年を経ずして、再建落慶法会を修行できるほどの信仰と隆盛を極めました。
 その後幾度か焼失しましたが、再建される度に諸堂の全てを西向きに統一されていたことから、如何なる時も頑なに真っ向勝負を挑む人を「見正寺向き」と言う諺を生んだと伝えられています。
 爾来、時代は移り人は替るもご本尊様と社会へ奉仕を捧げながら、一山檀信徒各家の御先祖様、十方檀越諸聖霊に香華燈明の歴史を今に伝えています。
 現在の本堂、大師堂、庫裡等は、前の建物の老朽化のため、平成四年檀信徒の熱き信仰と総意により再建を発願し、六年に及ぶ歳月を経て、平成十年に見事に完成したものです。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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大寺山 勇山寺(真庭市)

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第三十三番 大寺山 勇山寺(いざやまじ)
  当山は、神亀三年(726)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が六尺五寸の薬師如来を彫刻し、七堂伽藍を創建して国府大寺と号しました。実に1200有余年前にして、当国唯一の古刹でした。
 その後弘仁六年(815)十一月、弘法大師が来錫し、厄難除けのため、不動明王・矜伽藍童子・制多伽童子の三尊を一木より彫刻し安置されました。彼の成田山の姉妹作として、日本三体の一つです。
 不動尊は内に応病与薬の徳を秘し、外に悪魔降伏の相を現わし、現当二世に社会浄化の利益を施します。その彫刻は大師の御手よりなされたので、本尊の誓願深く籠らせました。故に、古今の名将や遠近の士女等、之を仰信して加護をうけられた人たちが多くいました。
彼の征夷大将軍は・源頼朝は文治五年(1189)に寺領百石を寄付し、山名忠政は赤松討伐のとき戦勝を祈り、また、天正十年(1582)領主牧家信は二十石を寄付して、堂宇維持のために充てられてました。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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鈴峯山 蓮乗院 薬水寺(美作市)

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 当寺は天平年間、聖武天皇の時代に行基菩薩によって開山されました。寺号を浄瑠璃寺と称し、薬師如来をお祀りしました。
 その後、正元元年(1259)に最明寺の北条時頼入道が、全国行脚の途中に立ち寄られました。
 その時眼病を患っており、本堂におこもりになったところ、「鬼門の方、山上の小池の清水で眼を洗うべし」という夢を見、さっそく洗うと、眼病がたちまちに平癒しました。
 そこに弁財天を安置し、寺号も薬水寺と改めました。
 弁天池の改修、社を再建しながら現在に至ります。しかしながら、平成になって山上に林道が開通したりと環境の変化のため、現在は残念ながら弁天池の清水はわずかながらしか湧いておりません。

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壽寳山 長善寺(鏡野町)

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壽寳山 長善寺
 寺の創設は古く、高野山聖無動院が本寺で、開祖、年代は不詳です。当初は富西谷字名越の高台にあり、山中山長善寺と呼ばれていました。
 平安末期、富荘では総鎮守、布施明神の別当寺となっていました。
 享保六年(1720)頃火災により全焼し、縁起・寺宝等すべてを焼失しました。敷地付近には室町期の宝篋印塔など数基あり、往時の足跡を残しています。その後現在の平地に建立され、山号を壽寳山と改められました。
 当寺では村内八十八ヶ所のお参り場所が、大正五年に小豆島から勧請され栄えていましたが、戦後衰退し近年再興されお参りをしています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年10月5日)

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2019 天石門別(あめのいわとわけ)神社の紅葉

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 2019年11月17日美作三宮の天石門別(あめのいわとわけ)神社の紅葉を眺めに行ってきました。
 美作三宮といわれる天石門別(あめのいわとわけ)神社は、社殿の後に滝があることから滝宮とも呼ばれています。創建は不詳ですが、社伝によると吉備津彦命が古代吉備の国平定のため西下した際、当社の祭神天手力男命(あめのたじかろうのみこと)の助けで平定できたお礼として、当地を選び、自ら祭主となって鎮斎されたと伝えられています。社地には、籠殿、拝殿、本殿が整っているうえに、古代祭祀遺跡「盤境」(いわくら)といわれる石積の塚も残っています。環境庁・岡山県(看板より)
2012年の様子)(2015年の様子)(琴弾の滝

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イナバ化粧品店とサムハラ神社

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 朝から良い天気に恵まれた2019年11月21日のイナバ化粧品店さんです。
今日は10時過ぎと言うのに朝から大勢のファンの皆さんがお出でになっていました。「今日は何の日?」とママから尋ねられたほどでした。各地から来られていて偶然イナバ化粧品店で一緒になられた皆さんです。どうぞ、良い一日をお過ごしくださいね。

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