2019 黒沢山萬福寺の紅葉
2019年11月30日の黒沢山萬福寺から望む津山市内です。
子どもの生まれて初めての厄除け『十三参り』は、虚空蔵菩薩さまに智・力・福を授かる加持として今に伝えられている。境内には、開山より約100年の後、弘法大師様、来山の折、錫を持って加持の為の秘水(阿伽の水)を湧かされたと伝えられる霊泉『明星水』がある。秋から冬にかけて朝に見る事ができる雲海、津山市を一望する夜景、太陽の動き・季節とともに移り変わる山の色、さまざまな景色が望める展望所が心を癒してくれる。
2019年11月30日の黒沢山萬福寺から望む津山市内です。
子どもの生まれて初めての厄除け『十三参り』は、虚空蔵菩薩さまに智・力・福を授かる加持として今に伝えられている。境内には、開山より約100年の後、弘法大師様、来山の折、錫を持って加持の為の秘水(阿伽の水)を湧かされたと伝えられる霊泉『明星水』がある。秋から冬にかけて朝に見る事ができる雲海、津山市を一望する夜景、太陽の動き・季節とともに移り変わる山の色、さまざまな景色が望める展望所が心を癒してくれる。
わが津山盆地は、はるかゆう久の昔し地質年代層を示す自然の博物館です。津山城址か、神南備山から、この盆地とそれをめぐる山々を望見すれば、日本列島の生い立ちの一大パノラマを思い浮かべることができましょう。古生代の終わりころには激しい地変があって津山市内から西方に亘っての基盤である結晶片岩類ができました。結晶片岩の山は山形仙、烏が仙、黒沢山のようにけわしい貎をしています。
変成しなかった古生層は津山から東や南方の基盤をつくりますが岩石が柔らかいので、南海台のようなゆるい山地をつくります。中生代の三畳紀にはこの一帯は海になりました。城山、観測所あたりや河面の近くで魚の介が見出されます。
ジュラ紀では地区地だったので地層はありませんが、白亜紀の後半は激しい火山活動がありました。那岐山系や佐良山から高比野山にかけた一帯にはその頃の熔岩や火山の噴出物が非常に厚く堆積しています。大きくみて2回に亘りましたが、後かのもののみでも厚さが1,000mを下りません。激しい振動を伴って沢山の火口から猛烈な噴火があって巨大な岩石が飛びかよい、多くの降灰によって天日は暗かったことでしょう。そして火山が衰えた白亜紀の末から新生代の第三紀のはじめにかけては、次第に地下に陥没して了いました。その時に深いところで花崗岩類が侵入しました。天狗寺山や錦織などの深成岩がこれです。
2019年12月1日久しぶりにグリーンヒルズで散歩してきました。
ザ・ヒルズハウス津山では、丁度オカフェス「カレーとパン&スウィーツのウィンターフェスティバル」が開催されていて大勢の人出でした。なんと、津山バーテンダークラブも出展されていました。また、親子で作るクリスマスオーナメント作りのワークショップもあり、ワイワイガヤガヤ賑やかでしたよ。12月に入りヒルズの丘は紅葉も終りがけでしたがそれでも残った木々が緑や黄色で美しかった。
当寺は天平年間、聖武天皇の時代に行基菩薩によって開山されました。寺号を浄瑠璃寺と称し、薬師如来をお祀りしました。
その後、正元元年(1259)に最明寺の北条時頼入道が、全国行脚の途中に立ち寄られました。
その時眼病を患っており、本堂におこもりになったところ、「鬼門の方、山上の小池の清水で眼を洗うべし」という夢を見、さっそく洗うと、眼病がたちまちに平癒しました。
そこに弁財天を安置し、寺号も薬水寺と改めました。
弁天池の改修、社を再建しながら現在に至ります。しかしながら、平成になって山上に林道が開通したりと環境の変化のため、現在は残念ながら弁天池の清水はわずかながらしか湧いておりません。
壽寳山 長善寺
寺の創設は古く、高野山聖無動院が本寺で、開祖、年代は不詳です。当初は富西谷字名越の高台にあり、山中山長善寺と呼ばれていました。
平安末期、富荘では総鎮守、布施明神の別当寺となっていました。
享保六年(1720)頃火災により全焼し、縁起・寺宝等すべてを焼失しました。敷地付近には室町期の宝篋印塔など数基あり、往時の足跡を残しています。その後現在の平地に建立され、山号を壽寳山と改められました。
当寺では村内八十八ヶ所のお参り場所が、大正五年に小豆島から勧請され栄えていましたが、戦後衰退し近年再興されお参りをしています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年10月5日)
美作市にある観音寺は、別名もみじ寺と呼ばれ親しまれているお寺です。11月上旬にはもみじ祭りが開催され、写真や俳句コンテストなどが賑やかに行われます。境内には色とりどりのモミジが絵にも言われぬくらい美しく思わず写真を撮りたくなります。
(作東町指定天然記念物 観音寺の森)
東作誌によるとこのあたりは江見の郷のうちで山家五か村を称して「山家の庄」といったという。その景観を今も残しているのがこの森だそうです。(2014年11月16日取材の時の様子)
美咲町旭文化会館(図書館、岸田吟香記念館)(美咲町西川1001-7)
岸田吟香は天保4年(1833)4月28日に久米郡中垪和谷村(現在の久米郡美咲町栃原)で父、秀次郎、母、小芳の5男3女の長男として生まれる。
幼少年時代の吟香は、大きな体で活発な子どもであったという。幼い頃から神童といわれ、4歳の頃にはすでに「唐詩選」を暗唱していたことからもいかに秀才だったかがうかがえる。5歳のとき、垪和の宝寿寺の住職が開いていた寺子屋で学び、12歳で坪井の大庄屋、安藤簡斉のもとへ学僕として住み込むことになる。吟香が坪井にいたのは、12歳から14歳までの2年間。この2年間で、坪井で学ぶものはないとみた簡斉は吟香を津山へ出し、はじめ永田孝平、次いで植原存軒に漢学を学ばせ、かたわら矢吹正則に就いて剣道を修めさせた。吟香が津山で学んだ期間はほぼ5ヶ年、その間津山郊外の高田村にある善応寺で私塾を開き、村の青年たちに四書五経や日本外史などを教えながら、勉学につとめていた。
2019年11月3日~11月17日まで「第25回 花の山寺 桜と紅葉まつり」が真庭市にある普門寺で開かれました。11月9日に伺ったのですが、モミジがすでに紅葉しているもの、これから紅葉するもので赤、黄色、緑と色鮮やかでした。また、近くでは、そばや団子等の特産品の販売もありました。
ここは、一年のうちに数回の花を咲かせる「四季桜」でも有名なお寺です。今年、びっくりしたのは菅官房長官のお人形が出迎えてくれました。本当によく似ていました。(2017年5月14日取材)
岸田吟香は天保4年(1833)4月28日に久米北条郡中垪和谷村(現在の久米郡美咲町栃原)で父、秀次郎、母、小芳の5男3女の長男として生まれる。
幼少年時代の吟香は、大きな体で活発な子どもであったという。幼い頃から神童といわれ、4歳の頃にはすでに「唐詩選」を暗唱していたことからもいかに秀才だったかがうかがえる。5歳のとき、垪和の宝寿寺の住職が開いていた寺子屋で学び、12歳で坪井の大庄屋、安藤簡斉のもとへ学僕として住み込むことになる。吟香が坪井にいたのは、12歳から14歳までの2年間。この2年間で、坪井で学ぶものはないとみた簡斉は吟香を津山へ出し、はじめ永田孝平、次いで上原存軒に漢学を学ばせ、かたわら矢吹正則に就いて剣道を修めさせた。吟香が津山で学んだ期間はほぼ5ヶ年、その間津山郊外の高田村にある善応寺で私塾を開き、村の青年たちに四書五経や日本外史などを教えながら、勉学につとめていた。(文:岸田吟香記念館『岸田吟香』より)(2019年8月18日撮影)
弘仁十三年(823年)、山岳権現信仰の発達していた時代、藤原雄友の創建で、この地の泉山山中に井水権現を本尊として神仏混合の社殿を建立し、当観音寺はその宿坊の役目をしていました。
後に勢力分離の国策のため、泉山に泉嵓神社として残し、観音寺は今この地に移転されました。その後は西屋城の戦でこの地に没した多くの兵士の菩堤を弔うために、慶長五年(1600)に頼照上人が中興となって再建されました。
山号に梅本山とあるのは、菅原一族の一部がこの地に土着して、道真公を奉祠したのを契機に、梅本山と号したのだと思われます。
持佛堂に阿弥陀如来と秘佛の訶利帝母尊(鬼子母神)をお奉りしていますので、子育てのお寺として信仰されています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年10月日)