美作の大庄屋「土居家」(下田邑)

doike-t-4.jpg

土居家 土居七郎兵衛 西北条郡下田邑村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 土居氏は、伊予の河野家の末裔である。天正年間に毛利氏の武将であった土居四郎次郎が神楽尾城の守りとして入ってきたのが、田邑土居家の始まりと伝えられている。その子、孫右衛門が帰農した。七郎右衛門が寛永8年(1631)大庄屋に任命され、二男太郎右衛門が河辺村土居家、三男伊右衛門が田辺村土居家として分家し、ともに大庄屋を勤めた。

doike-t-11.jpgdoike-t-12.jpg

大庄屋として
 土居家は、元禄6年(1693)森長成が幕府より犬小屋の建設を命じられた時、特別の負担を命じられている。元治元年(1864)には土居通政が郷夫総取締りとして長州戦争に従軍している。明治に入って、岡山県屈指の大地主に成長し、酒造業も経営した。

doike-1.jpgdoike-t-5.jpg

所在地
 下田邑村は、津山盆地の中央の山に囲まれた盆地で、古代の田邑郷に由来している。東には神楽尾城がそびえ、中央を紫竹川が南へ流れている。

doike-t-2.jpgdoike-t-3.jpg

立派な石垣です。(東側面)

doikenohaka.jpgdoikenohaka2018-12-17.jpg

屋敷・墓地                   (2018年12月17日撮影)
 屋敷は、田邑盆地中央の紫竹川沿いの森(字名)にある。敷地内には当時の建物の一部が現存し、他家の三家族が住んでいる。墓地は屋敷の近く3か所にあり、古い墓石が林立する。菩提寺は真言宗安養寺(津山市上田邑)であった。

doike-t-8.jpgdoike-t-9.jpg

屋敷近くの墓地

doike-t-10.jpgdoike-t-7.jpg

子孫
 明治30年通政の弟通信は土居銀行を設立した。通政の長男通博は土居銀行の頭取、津山製紙、中国鉄道の取締役など産業界で活躍した。明治39年(1906)には多額納税者として貴族院議員に任命され、9年間国政にも貢献した。通信の子通憲は、津山製紙、中国鉄道取締役などを経て大正12年(1923)から衆議院議員を2期務めた。土居銀行は昭和5年(1930)に県南の銀行と合併して中国銀行になった。当時の土居銀行の建物は津山市西今町にあり、作州民芸館として親しまれている。
(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)(2020年3月14日撮影)