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取材記事内を検索ワード「池」で検索した結果,316件の記事が見つかりました。

河面 墨池山(ぼくちざん)清瀧寺と仁王門

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 河面にある清瀧寺は、作州きっての古い真言宗のお寺である。(お寺シリーズ、レポート記事
旧「岡山県勝田郡誌」(初版 大正元年)に、「本郡には役の小角夙に来り聖武の朝国分寺を建てられ又行基来り空海来り圓仁来り各寺院を創造す 故に古来巨刹多く宗派は真言を最多とす天台之に亞ぐ」と記述されているように、真言宗の清瀧寺は、まさに、弘法大師(空海)ゆかりの古刹とされている。
 空海が唐の都長安で修行に励んだ寺は、青龍寺であり、ゆかりの寺院名称であるうえに、寺伝によると、平安時代初期の弘仁12年(821年)、嵯峨天皇が弘法大師に命ぜられて建立されたとされている。墨池山というのも、雨乞いの加持祈祷を行った弘法大師が、自らその筆を洗ったという「墨の池」も伝説にちなんでの山号であり、今も伝説の墨池という小池が残されている。
 清瀧寺の往古は、広大な七堂伽藍をようして、多くの僧坊があり、西光寺・真福寺など7カ寺の末寺を持つほど栄えたらしいが、中世戦乱に巻き込まれ、やがて廃絶したと言われている。(2012.3.20)

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福井 絵馬が往時を語る金比羅宮

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福井 絵馬が往時を語る金毘羅宮2012年2月12日取材
 福井の街道筋の二つ池の南山手に金比羅宮がある。こんぴらさんの通称で信仰されているが、四国琴平の金毘羅宮より勧請され、祀られたお宮であることは言うまでもない。
 金毘羅宮の神は、本来、薬師如来十二神将の一人宮毘羅大将であり、とくに航海安全・交通安全の御利益で知られているが、さらに家内安全・商売繁盛・開運出世など幅広い御利益でも人気が高い神様である。江戸から明治の時代にかけて、伊勢参りとともに、一生に一度は金毘羅参りをすべきものとされ、その参詣は信心深い庶民の念願であった。森の石松の金毘羅参りは有名な話だが、とくに江戸時代後半には、町人文化の広がり、商品流通の進展・金毘羅道などの交通網の整備などを背景に金毘羅参りが流行した。 (文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)

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旧広野村戦没兵士の慰霊塔

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旧広野村戦没兵士の慰霊塔 
 広野小に隣接する小村池の東南隅に当たる山麓に、市道曲がり角に面して、広野地域の慰霊塔が祀られている。
 各地域に見られる忠魂碑に相当するもので、いわゆる御国のために、戦争で犠牲になった広野村当時の出征した兵士の御霊を祀っている石塔である。
 この慰霊塔には、日本の近代化のなかで惹き起こした戦争のために、広野村から出征し、戦死・戦病死した兵士113柱の慰霊が納められている。戦没者の内訳は、日清戦争(1894~95年)2名、日露戦争(1904~05年)6名、満州事変(1931年~)日華事変日中戦争(1937年~)太平洋戦争(1941~45年)という15年戦争の105名である。
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河面 旧街道の要衝を示す萬屋(茶店)と道標

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河面 旧街道の要衝を示す萬屋(茶店)と道標(2012年1月28日取材)
 自動車の通行を考えない昔は、山坂をいとわず、ほぼ直線的な最も近いところを道筋としていた。農山村地域に残されている旧道の山道は、たいていは上り下りの変化は大きいが、最短コースを考えた道筋であった。
 加茂谷や日本原を受けて、近長方面から大崎方面(播州街道)に抜ける南北の道や真加部・植月方面から田熊を経由して河辺方面(備前街道)に至る東西の道は、河面の下山地域を通過していた。とりわけ、勝田町真加部から勝央町を通って河辺・津山と結ぶ道は、津山真加部街道として、年貢米の輸送、商人の往来、寺社詣での主要道路として栄えていた。河面でちょうどこの接点に相当している場所が、下山地区の吉田家(吉田富之助さん宅)であった。江戸時代、吉田家は、萬屋の屋号をもち、茶店を営み繁盛していた。参詣にやって来た津山の殿様も、必ずこの萬屋に立ち寄り休憩して、威儀を正して清瀧寺なり広山八幡宮にお参りしたと言われている。当時は、河面の集落も吉田家周辺の丘陵上に多くあったということである。 

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田熊の赤ひげ先生【田熊の医師井上先生の頌徳碑】

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田熊 明治初年恩徳の医師井上先生頌徳之碑
 通常、植月線と呼んでいる道路=主要地方道津山大原線を、河面(こうも)から田熊(たのくま)へ向けて行くと、田熊分に中鉄バス八ヶ原駐車場がある。この付近の向かって道路右側横に、医師井上先生の頌徳碑(しょうとくひ)が、建立されている。
 作州の場合は、幕末から明治の初めにかけて医者は、ほとんどが大阪や京都などへ勉学に赴(おもむき)き、苦労してその資格を得ているが、その割りに報われず、まさに「医は仁術(じんじゅつ)」として、奉仕の生活を余儀なくされた。 

 田熊のある老人の話によると、自分の祖父は医者であったが、家族の者に間違っても、子孫は医者にするなと遺言を残して亡くなったという。その話を要約するならば、懇意にしている農家の嫁さんが、かなりの重い病にかかった。何としても治療を思い、当時、長旅をかえりみずに京都まで良薬を求めて行き、その後も献身的な面倒をみた。やがて、薬石の効があって健康を回復し、共に喜んだのはよいが、治療代の報酬はというと、年の暮れに八ヶ原池で捕れたカモ一羽だけだったそうである。医者をしておれば、身代をつぶすというわけである。この話は、一方の庶民の側からみると、それだけに当時の医師はありがたい存在であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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箕作家の墓所

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箕作家の墓所

 箕作家の墓は、もと市内上之町の浄円寺内にあったが、阮甫が江戸に定住したあとここに移された。阮甫以降の省吾、麟祥など幕臣箕作家の墓所は、初め東京小石川の白山浄土寺にあったが、今は多磨霊園に移されている。秋坪・佳吉など津山箕作家の墓所や、奎吾・元八ら江戸箕作家の墓所ならびに大麓以降の菊池家の墓所は、ともに東京谷中墓地にある。

 箕作家旧宅が国の史跡に指定された昭和50年、宇田川・箕作顕彰会と津山市教育委員会により、解説板と標柱が設置された。しかし、歳月を経てそれらの傷みが激しいため、箕作阮甫の生誕二百周年にあたり、津山洋学資料館友の会が、広く市民の協力をえて整備したものである。(案内板より)
平成11年11月7日

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音楽祭9月22日街かどコンサート/ウエストランドの報告

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第8回津山国際総合音楽祭ウエストランド2011年9月22日(水)街かどコンサート

●ヴォーカル・ピアノ  ビスチョコ/17:30~18:00
ピアノに合わせてなじみの楽曲を歌う19歳の女性コンビ。

●アニメソング  TOAH/18:30~19:00
Jam・Project の曲を中心にしたアニメソングの数々。

●ギター  君島俊秀&池田卓司/19:00~19:30
アコースティックギターのインストゥルメンタル。ジャズやフラメンコの曲をギター2本で表現する。

●ヴォーカル・ギター  黒田文弥/19:30~20:00
レミオロメンに傾倒している黒田文弥が彼らの曲を熱唱する。

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ミュージカル「不思議世界の榕菴センセイ」

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みんなのミュージカル「不思議世界の榕菴(ようあん)センセイ」は2011年9月18日(日)津山文化センター大ホール18:30分開演、入場料:¥2,000/学生¥1,000〔全席自由〕※無料託児サービスあり


作者のことば 山田美那子
 津山洋学資料館の中庭に宇田川榕菴の石像がある。穏やかな優しい瞳の像である。
 檳便榔樹(びんろうじゅ)の樹の下にあるといいのにといつも思ってしまう。榕菴の「榕」は榕菴の生家に聳えていたびんろうじゅ、ガジュマルの熱帯樹にちなんだ命名である。熱帯樹木だから津山みたいな寒い所では育ちにくいのかもしれない。
 新聞やテレビで榕菴の翻訳した「舎密開宗」に基づき、ボルタ電池作りに挑戦する小学生たちの写真が掲載されていた。
 榕菴ほど本邦初ということばのふさわしい人はいない。珈琲(コーヒー)・トランプ・西洋音楽・楽器の研究・植物学・物理学・百を越える化学記号の名付け親。
 どれを取り上げても榕菴は天才的なひらめきをほしいままにするマルチな人物である。
 津山藩に医師として仕え、コレラや天然痘の伝染予防に心を尽くした人の生涯を津山に住む私たちは大切に記憶したい。
 時代の暗闇をひたすら拓き、ひたすら生き抜いたわが津山藩の洋学者群像はわれらの誇りである。
 宇宙の暗闇をゆく「ハヤブサ」と重なる、榕菴の心意気を津山の子どもたちにしっかりおぼえてもらいたい。
 「なでしこジャパン」も「ハヤブサ」も決してあきらめなかった。
 キミもやればできるはず。「できない」なんて情けないことを言うな!!

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加茂町歴史民俗資料館

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万燈山古墳(2011年8月12日取材)
加茂町塔中にある6世紀末ごろ築造された古墳で、墳丘の直径約24m、片袖式の横穴式石室をもつ円墳である。昭和46年から47年にかけて発掘調査が行なわれた。石室の総長は12.1m(玄室の長さ6.5m、幅m2.1m、高さ2.7m、羨道の長さ5.6m、幅1.8m、高さ2.3m)で奥壁の添って最初の被葬者のものとみられる箱形石棺が安置されていた。この石棺内には3体が合葬されており、他にも2~3体を合葬した陶棺1基および木棺7基の追葬がみられ、合計20体以上が葬られていたものと推測されている。石室の規模は美作地方で最大級のものであり、注目される古墳である。

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サマーフェスティバル IN 塩手の水中花火(塩手池)

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サマーフェスティバル IN 塩手

開催日:2011年8月12日(金) ※雨天順延〔8月13日(土)〕(▲写真提供:津山市)
時 間:18:00~21:30(打上予定=19:30頃~)
会 場:津山市市場・塩手池周辺
打上数:3000発
問い合わせ先:0868-36-5533(サマーフェスティバルIN塩手実行委員会)

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