河面 国分寺台地を潤した牛の子用水

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2012.4.21
 牛の子用水は、河面地域にある水田の灌漑用水であるが、かつては、河辺地区の国分寺台地の水田を潤していた。楢にかかる桜橋の約200m下流にある加茂川牛の子渕から取水し、近長~河面~河辺井ノ口~国分寺~瓜生原と、延々およそ7,500mに及ぶ、近郷まれに見る長大な用水路であった。
 国分寺に至るこの用水路は、明治8年に着工し、村中総動員の突貫工事で、明治9年の(1876年)5月に竣工し通水を見た。当時、勝南郡国分寺村・瓜生原村は、池水や天水に頼っていた高台のため、水不足になやみ度々干害を受けた。地租改正令の実施に伴って年貢米から現金によって定額の地租を支払うようになったため、干害の被害は重大であった。関係者が協議を重ね、近長・河面村の協力支援を受けて、この大工事に着手したのであった。今も、これを記念して「明治新渠之碑」という記念碑が、国分寺境内に残されている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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碑文の一部には、これまでの「牛の子の堰を修し、河面の溝を鑿ち、屏風の巌を穿ち、畝山上原の丘低きは則之を陂ぎ深きは之を瞰る。積、工一万五千人、賃金三千円、五閲月して渠成る。」とあり、長文の碑文には、竣工に至る労苦や竣工の喜びが刻まれている。
 明治初年の当時、これまでにある水路は幅を広げ、新しい水路を開き、隧道、掛樋の工事をするなど全て人力によりまことに難事業をついに完成にこぎつけたのであった。
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この用水路によって、国分寺16町8反、瓜生原4町2反、今にして約21ヘクタールの水田の灌漑用水が潤い、さらに後には、日上まで潤すに至った。幅広い用水を通すことにより、関係水田の面積も変わり、地租も変更になるため、河面では、この当時の1筆ごと水田測量をやり直した土地図面の記録が残されている。
 牛の子用水は、その後、明治35年(1902年)に、「牛の子井堰普通水利組合」が正式に発足した。初代組合長には広野村長坂手俊平がなり、第5区までの組合区域をもうけ5村で管理され、用水全体が近年まで存続していた。
 昭和50年代、ポンプアップによるパイプライン方式の用水工事が完成を見るに至って、国分寺方面への用水路は、その役割を終えている。
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井堰は、現在7つの井堰が統合され、加茂川統合井堰となっているそうです。市の水道水もその統合井堰から取水しているとのことです。
統合井堰の場所は、草加部の松下電器のちょうど東側あたりです。
楢の国道53沿いのホテルのところを北に入る道がありますから、そこを北上すると、工業団地の東側あたりから川沿いに出ます。場所はそのあたりで確認できると思います。