取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「記念碑」で検索した結果,55件の記事が見つかりました。

栃原公園 岸田吟香記念碑(栃原)

ginkoukinenhi6.jpg

岸田吟香翁胸像文
 岸田吟香翁は天保四年(一八三三)久米郡垪和村大字中垪和谷(現旭町栃原)に生まれ一九歳のとき江戸へ出て昌平黌、藤森天山塾などで漢学を修めたあと、アメリカの宣教医へボンに医学を学びながら「和英語林集成」の編集に協力、元治元年(一八六四)ジョセフ・ヒコらとわが国最初の新聞「新聞紙」を創刊、慶応四年(一八六八)「横浜新報・もしほ草」を発刊、明治六年(一八七三)「東京日日新聞」の主筆に迎えられわが国の近代的文章の確立に寄与、その間目薬「精錡水」の製造販売を家業にして石油採掘、製氷、定期航路の開拓などを始め盲唖学校「訓盲院」の創設など文明開化期の先頭に立って活躍した。(文:現地銘板より)(2019年8月18日撮影)

栃原公園 岸田吟香記念碑(栃原)の続きを読む

宗道臣 生誕の地 少林寺拳法記念館

soudoushin4.jpg

少林寺拳法創始者宗道臣開祖の経歴
 1911(明治44)年2月、岡山県(現美作市)生まれ。
 17歳の時、中国に渡り、日本民族の捨て石となって大陸を駆けめぐる。その間、縁あって嵩山少林寺の流れを汲む文太宗老師の知遇を得てその門に入り、各種の拳技を修得する。
 ソ連軍政下の中国東北(満州)の地で敗戦を迎える。
 敗戦直後の極限状況下で、人間の赤裸々な行動を目の当たりにし、法律も軍事も政治の在り方も、リーダーとなる「人の質」にあることを確信する。そして、真の平和を達成するためには、慈悲心と勇気と正義感の強い人間を育てる以外にないと決心する。
 1947(昭和22)年10月、香川県多度津町において、力愛不二の"教え"と自己確立・自他共楽を旨とする"技法"を中心とした、社会に役立つ人づくりの教育システムを考案して、拳禅一如の「少林寺拳法」を創始、少林寺拳法師家となる。1980(昭和55)年5月、逝去。(文:美作市発行チラシより)

宗道臣 生誕の地 少林寺拳法記念館の続きを読む

旧喬松小学校跡記念碑(鶴坂)

6-29kinehi6.jpg

 明治6年創立で挙母藩陣屋官邸が校舎で、学区は坪井下村、中北上村の半村、南方村であった。明治20年中北上村の岩谷校(坪井上村、中北上村の半村が学区)を統合して尋常小学校となり、明治23年大井西村を学区とした。
 児童数の増加により、明治27年鶴坂宮高下に新築移転。昭和22年喬松小学校と改称。昭和35年大井西中学校が格致中学校に統合されたため、その跡地に移転新築され現在に至っている。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)

旧喬松小学校跡記念碑(鶴坂)の続きを読む

大山あじさいロード(湯郷)

7-6oyama2.jpg

 2019年7月6日に、湯郷にある大山あじさいロードを訪ねてきました。
記念碑に「市道大山線、総延長2,190m、工事期間:昭和61年着工 平成8年完成。平成10年から大山住民により新たな観光地を目指し、あじさいの植栽に着手、現植栽本数 約2,700株、本年大山あじさいロード事業完了を記念し、記念碑を建立する 平成27年9月吉日 大山部落」と書いてありました。 綺麗に咲いている色とりどりのあじさいの花を拝見して、大山部落の皆様の努力に感激しました。

大山あじさいロード(湯郷)の続きを読む

人形峠環境技術センターってどんな所?

ningyotoge2.jpg

 2018年11月6日の小雨降る中でしたが、途中の山々の紅葉の景色に感動しつつ人形峠環境技術センター到着。日本原子力研究開発機構に予約を入れて時澤さん、日野田さんに案内していただきました。以前来たことはありましたが、現在どんなお仕事をされているのかが分かり勉強になりました。


人形峠環境技術センターのこれまでの仕事
 原子力発電所では、燃料としてウランやプルトニウムを使用します。人形峠環境技術センターでは、燃料となるウラン鉱石を探す、掘り出す、鉱石からウランを分離する、ウランを濃縮するといった、原子燃料サイクルの上流技術といわれる技術開発を担っていました。
これらの技術開発は民間企業への技術移転を行う等、所期の目標を達成したため、2001年 (平成13年)に終了し、現在は施設の廃止措置を進めています。

人形峠環境技術センターってどんな所?の続きを読む

片山潜の青春ー故郷における労働と学習

2017-04-19 004.JPG

 自由と民主主義のために闘った人々の、精神的ささえともなった、戦前の革命的民主的出版物をひとりでも多くの人達に見てもらおうと、毎年「戦前の出版物展」を開催しております。
 この冊子は、同時開催で開かれた講演会「片山潜の青春・故郷における片山潜の労働と学習」河原要(片山潜記念館事務局長)氏の講演を要約したものです。なお河原氏の講演内容は、片山潜の生家や記念館を訪ねるときの参考になるものと思われます。『嵐の中の青春』林直道著と共にお読みいただければ幸いです。(文:2015年7月15日片山潜記念館だより創刊号より一部を転載)

片山潜の青春ー故郷における労働と学習の続きを読む

廻国供養の碑(中村)

2018-8-26新善光寺4.jpg

 近世において廻国聖と称す一種の聖が日本六十六国の霊場を遍歴し、一部づつの如法経を納めて歩いた。
 到るところで費用を勧進してゆき、頭を布で包み白衣に笈を背負い鉦を叩いて善根を勧進して歩く。一種特別な服装で遊行するものもあれば、巡礼姿に身をやつし廻国する農民も多かった。
 しかし本物の廻国聖でさえ六十六国を廻り尽くしたものはすくなく、遠国の道のりを他国の風物に接し、疲れと病を気づかう不安との戦いののち無事本願成就の暁に地元に廻国の記念碑を建てた。
廻国記念地蔵菩薩/中村 新善光寺/供養塔 一体

廻国供養の碑(中村)の続きを読む

植月城跡(小山城)(宮山城)勝央町

uetsuki8-9.jpg

 植月城跡 勝田郡勝央町植月中字小山(岡山の中世城館跡) 
永正九年(1512)宮山城と改名する。10㍍余りの高台のうえにあり、本丸は一三間×一三間、二の丸は一八間×一八間、北側に約一間半の築地が現存する。
 菅原満佐の四男公興が宝治2年(1248)、植月、広野の地頭職となった時築城したといわれ、植月一族の本城である。城主は公興ー安嗣ー重嗣ー重佐ー重長ー重可ー可直ー佐豊ー基可ー重直ー重豊ー重政ー基佐ー能佐ー佐峻ー佐教。
 四代重佐は菅家一族とともに京都六波羅討伐に出陣戦死す。この功で大正5年正五位の追賞をうける。(城跡に記念碑が立つ)永正9年城主基佐は、日吉神社を現在地に遷座し、本城も宮山城と改名する。三星城に味方し出陣するも、城主佐教をはじめ多くの一族戦死する。城は岡豊前守が接収、城主となる。毎年4月8日、植月一族城跡に集まり、先祖供養を盛大に行っている。(文:『勝央町誌』より)(2018年8月18日撮影)

植月城跡(小山城)(宮山城)勝央町の続きを読む

芭蕉句碑(津山市日本原字日本)

basyokuhi-4.jpg

 日本原神社の前にあり、建碑は弘化2年(1845)もとは、国道53号線の南側に建てられていたが、のちに北側に移され、国道改修のため、現在のところに移転した。
 芭蕉150年忌あたる天保14年(1843)に、日本原に芭蕉句碑を建てようと志していた、俳人有元渕龍(山形)が没したので社友亀由等が、其の意志を継いで建てた碑である。
 碑面に刻まれた句は、芭蕉が那須野で詠んだものであるが、日本原野の景観が、この句意に符合するところから、選ばれたといわれている。(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)

芭蕉句碑(津山市日本原字日本)の続きを読む

【津山人】彫書家 彫無季

muki-2.jpg

 彫無季(本名河野省三・1904~1992)は明治37年岡山県苫田郡津山町三丁目(現津山市本町三丁目)に生まれました。大正9年(1920)岡山県立津山中学校を中途退学し、2年余り中国上海に遊学しました。同13年(1924)帰国ののち上京し、翌年東京蔵前工業専門学校に入学しましたが、2年後に中退しました。
 その後、叔父の経営する工場の仕事を手伝いながら、独学で中国の拓本などを学習しつつ、自らの書の工芸を模索しつづけました。そして、ついに書と彫刻が一体となった彫書という新しい芸術を創造しました。
 昭和29年(1954)初の「彫書」個展を開催、以後個展の開催や各種揮毫、著書の出版など縦横無尽に活躍しました。また、昭和41年(1966)には淳和会を発足させ、後進の指導にも努めました。平成4年東京で没。享年87(文:平成18年3月18日津山市教育委員会「彫無季の芸術」より)(写真:津山郷土博物館特別展図録『彫無季の芸術』より転載)

【津山人】彫書家 彫無季の続きを読む