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取材記事内を検索ワード「夏」で検索した結果,353件の記事が見つかりました。

衆楽園のつつじの花とスイレンの花

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(2012年5月7日の衆楽園)衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に「衆楽園」として命名されました。
  衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。(津山城より
春夏秋冬いつ来ても見ごたえあります。(過去の取材

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瑠璃山日光院 眞福寺(美作国七福神)

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真福寺(2011.6.24取材) ▲写真2012.4.17取材
 瑠璃山日光院 眞福寺の略歴と沿革
 当山は、天平12年(740)聖武天皇の勅りにより、太古行基菩薩開創し御本尊薬師如来を奉安され、始めは槍原地内に在って萬福寺薬師院と称していたが、現在地へは寛永年間(1624)移築され眞福寺日光院と改めたがその後、付近の火災の飛火に遭って全焼し寛文8年(1668)檀信徒より木材並びに労務の奉仕等により建立されたものです。
 初代清誉上人より今日に至る迄、檀信徒聖霊香華燈明を掲げ、真言密教の寺として法燈を護り伝えて参りました。爾来、375年余の星霜を重ね近年に至っては特に老朽化し、平成5年に議題になり平成7年檀信徒の浄財等により改築を決定した。西暦2000年の節目に完成する。(情報提供:真福寺)美作88カ所霊場会のホームページ

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「棟方志功・まぼろしの初期作品集展」M&Y記念館

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2F展示室 特別企画展 「棟方志功・まぼろしの初期作品集展」
3月31日(土)~9月30日(日)
 今回の企画展では、処女版画集である『星座の花嫁』をはじめ、初の裸婦作品集となった『ヴェニュス生誕』、今回発見され、「開運!なんでも鑑定団」にも登場した幻の作品集『季節の花籠(草稿)』など、初期の貴重な棟方志功の版画作品集を一同に展示しています。


 「季節の花籠」は、不動明王に始まり、不動明王で終わる作品集で、河井寛次郎に学ぶ以前の志功の仏教観をはじめとする様々な心象、題材、表現手法が各作品にテーマとして現われており、将来の棟方作品を見事に予感させてくれます。
 昭和初期、棟方志功が、貧困の中で試行錯誤しながら版画に取り組み、自身の作風を確立して行くまでの過程が良くわかる作品展です。入場料:500円(1F企画展もご覧になれます。)
文:棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)提供

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河面 今も祀られている戦死武者の墓

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 河面下山地区の丘陵部は、かって武家時代の合戦場であった。尾根伝いに平家ゆかりの城であった新宮城につながっていること、周辺の見通しのよい高台であること、東西の真加部街道や南北の加茂谷に通じる道の要衝であったことなどによって、この周辺が勢力争いの場となって合戦が行われたと考えられる。(2012年1月28日取材)

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広野小裏山 小祠に祀られている広野神社

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 広野小学校裏山に小祠に祀られている広野神社(2012.1.15取材)
 広野小学校給食室の裏山に、学校の敷地に接して小さな社があり、広野神社として今も祀られている。ごく最近、広野神社と書かれた真新しい木造の鳥居が建てられ、その存在が明示されるようになった。それまでは、茂みの中に位置していて、近隣の氏子以外には、ほとんどその存在が気づかれにくい状況にあった。
 平成4年、岡山の年配の女性から広野小へ次の要旨の問い合わせがあった。


 「私は、元河面(こうも)出身の者だが、何十年ぶりかで津山を訪れる機会を得た。子どもの時分、病気し吹き出物にも困っていたとき、学校の周りのお宮さんにお参りして大変おかげを受けたのを覚えている。ついてはお礼に参ってみたいので、その場所を教えてほしい。」
その時私は、「学校周辺にはお宮はなく、河面の八幡様か福井の金刀比羅宮(ことひらぐう)ではないか。」と応えたが、私自身不明を恥じる次第となった。
 後で分かったことだが、校長室にある広野小初期の藁(わら)ぶき校舎を描いた絵に、広い参道と鳥居が校舎のそばに描かれている。また、江戸時代、「東作誌」の田熊村上分にも、小祠の祭神の記述が見られ、古くからの存在が裏付けられた。社伝は明らかではないが、社のなかに「広野神社御本殿再建正遷(せいせん)座鎮祀(ざちんし)当社氏子安全斎主宮司 豊田元留 昭和四九年壱月弐拾七日」と銘がある。

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東日本大震災被災者への支援物資(略礼服、ミシン)のお願い。

DSC02541.jpg津山ホルモンうどん研究会から,東日本大震災被災者への支援物資(略礼服・ミシン)の提供のお願いです 津山ホルモンうどん研究会は つやまNPO支援センターと合同により 東日本大震災で被災された方々への支援活動として 現地から要望のあった「略礼服・ミシン」の提供を行うことになりました。
 提供品については、震災から丸1年が経過する3月11日に合わせて、遺族の方が慰霊祭や追悼法要等に使用される略礼服が不足しているとの要望に基づいて、そのサイズ調整を行うミシンも含めてご提供をお願いします。

・略礼服については、新品もしくはクリーニング済みのものとし、サイズを明記のこと。(号数や身長、ウェスト)男性用・女性用、夏・冬服は問いませんが和服は不可とします。

・ミシンについては、新品もしくは使用可能なもので、足ふみ式等の大きなものは不可とします。

 提供可能な方は、2月12日までに、つやまNPO支援センター(津山市井口21-1、津山市コミュニティセンター「あいあい」)までご持参ください(月曜日は休館日)。

津山ホルモンうどん研究会は、B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会(通称:愛Bリーグ)による炊き出し支援等、これまで3度(H23年6月、8月、11月)被災地支援活動を行っています。次回は3月9日~11日に、支援活動を予定しております。どうぞよろしくお願いいたします。

津山市カウントダウン花火in小田中

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毎年恒例となった津山市小田中の年忘れ花火大会が行われました。(昨年の様子はこちら
2011年12月31日 (土)午後10時~ 津山市小田中笠松地区にて行われました。昨年は雪の中でしたが、今年は暖かな年越しとなりました。また、今年の花火は例年より少なめでしたが、その分来年は多く上げるそうです。この日は、飲み物・そば・豚汁・ぜんざい・雑煮・焼き芋などがふるまわれ、大勢の皆さんが舌鼓。私も沢山ご馳走になりました。笠松の青壮年会を始め、近隣の青壮年会や町内のみなさんご馳走様でした。お陰さまで身も心も暖かい年越しとなりました。

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因幡往来に隣接 山王権現を祀る日吉神社

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日吉神社は聞き伝えによると、滋賀県の日吉大社から持って帰ったと言われています。大国主命の弟をお祀りしているとのことでした。太田町内会の宮総代の下山清さんは「昔は廻り舞台もあったが、終戦後に壊したのではないかと思います。そして、参道脇にはワラ家があって賑やかでした。また、日吉神社はすもうの神様なので境内には土俵があり、よく相撲をしていました。」とお話くださいました。日吉神社には記録も紛失して残っておらず、しかも荒れ放題だったのを下山さん達皆で立て直されたそうです。日吉神社は、川崎太田、玉琳、飯綱、東野介代、野介代東分の各町内会が氏子だそうです。毎年7月13日には「お湯立て」があるそうです。2011年10月16日取材

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津山人「全日空を創った 美土路昌一氏」

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津山市一宮の本光寺参道の前の小路を上がってゆくと美土路昌一氏の墓があり、横には碑が建っている。右上には「言論自由の語は之を守る為め死を辞せざる者のみ言い得る言葉なり」とあり、下方には「この夏は越せそうも無き米寿かな」とある。後者は死の三日前の絶筆である。

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↑2015年12月7日現在は先祖代々の墓地で静かに眠っておられます。

(美土路昌一氏は明治19年7月16日中山神社の社家の一軒で生まれた。)

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美土路家(現津山高校100周年記念館)の前の津高の門を入ってすぐ、よく伸びた二本の松がある。これは、はじめて空を飛んだライト兄弟の飛行場の松の種をもらって、母校の庭に寄付して植えたもの。

よく言っていた言葉「一歩退って人に接せよ」、「何ごとも、まず相手のことを考えよ」、「水流先を争わず」文:津山市文化協会「津山の人物」より)


 「現在窮乏、将来有望」これは津山市出身で市の名誉市民 美土(みど)路(ろ) 昌一(ますいち)氏が全日本空輸(ANA)の前身である「日本ヘリコプター輸送株式会社」創立時に掲げたスローガンです。

1886年(明治19年)、苫田郡一宮村(現:津山市一宮)で生まれた美土路 昌一氏は、旧制津山中学を卒業後、文学を志し早稲田大学文学に入学されました。苦学の中、文学の道を断念され大学を中退後、朝日新聞社に入社されました。

 入社後は第一次世界大戦(青島戦)に従軍されたほか、上海、ニューヨーク特派員を経た後、編集局長として神風号による東京‐ロンドン間の記録飛行を成功に導くなどの活躍をされました。
 その後、日本は戦火の渦に突入しますが、戦中、編集局長、常務取締役と朝日新聞社の要職にあった美土路氏は言論の弾圧にさらされます。

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「日本一遅い花火」かもの夏まつり

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★かもの夏まつり(以下写真提供:津山市)   (昨年の様子はこちらからご覧ください
開催日:2011年8月14日(日) ※雨天順延(花火のみ)〔8月15日(月)〕
時 間:19:00~22:30(打上予定=21:50頃~)
会 場:津山市加茂町桑原・加茂中学校 
打上数:1000発
問い合わせ先:0868-42-2092(かもの夏まつり実行委員会)

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