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取材記事内を検索ワード「城址」で検索した結果,49件の記事が見つかりました。

青木神社(大谷)

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主祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命、例祭:十月十日、境内地:七九二坪、主要建物:本殿・幣殿・拝殿 由緒沿革 創建年月等不詳。元扇宮と称し、大谷八伏の地にあり、社領八町歩を有し、地方における有力な神社である。天文年中尼子晴久の乱、永禄年中凶徒の乱により、古證文宝物等悉消失した。慶長八年森忠政公入封築城後塞神の処より大谷八伏に向けて大砲の訓練を行い支障があるので、森長継が、寛永十二乙亥年現在地に移転し、青木神社と改称した。明治五年村社に列した。(文:『岡山県神社誌』より)(2017年10月9日撮影)

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旨さ史上最強!第2回牛うまっ王選手権が開催されました。

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2017年5月3日・4日(公社)津山市観光協会主催で「第2回牛うまっ王選手権」が津山城(鶴山公園)三の丸野外特設テント会場にて執り行われました。(牛うまっ王選手権は、古くから食肉牛の生産地として発展してきた津山で、牛肉にちなんだイベントです。)2日間で約7,000人の来場者でにぎわいました。
 会場では、出展社27店舗(投票対象外2店舗)が自慢の牛肉料理で味を競い合い、投票により優勝者は昨年に続いてネギまみれの焼きそずりポンズ(居酒屋 上屋)さんでした。(2位 炙り牛寿司 大衆肉酒場 いぶし銀、
3位 千屋牛串焼き 新見食肉さんでした。)

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千年寺の石燈篭両基

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 長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山 市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。(撮影2017年4.月12日)(2014年の取材)

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【津山人】桜の植樹に心血を注いだ福井純一

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桜の植樹 
 鶴山公園は岡山県内で唯一、全国桜名所百選に選ばれている桜の名所である。この桜の植樹に尽力したのが福井純一である。福井家はもと真庭郡久世町の在で、酢の醸造業を営んでいた。天保年間(1830~44)に分家して津山に移り住んだ。純一は明治11年(1878)1月31日、父・周二郎(別名・浪二)の長男として、津山市本町二丁目に生まれた。津山成器小学校から同志社中学に進むが、父が病で倒れたため、中退して帰郷する。

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田邊城のさくら満開時の様子

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お天気に恵まれた4月の清々しい朝、思い立って田邊城へ登ってみました。相変わらずの急こう配ですが、何度かお訪ねするうちにスムースに登れるようになりました。田邊城は岩屋城の属城としての役割を果たして来たお城です。詳しくは2010年の取材記事をご覧ください。前回は、2010年4月29日2015年5月5日にお邪魔しております。(2016年4月16日撮影)

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田邊城址(津山市中北上と宮部下)

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田邊城について(2015年5月5日取材)
 田邊城は今からおよそ430年前に建てられた標高約230メートルにある山城です。
 山中には本丸、堀切、土塁、馬場などの跡が残っています。敵の侵入を防ぎ、見張りの役目を果たしたと考えられています。
 所有者の田邊久吾さんによると、この城は田邊さんの先祖が城主をつとめていたそうです。
 十数年前、田邊さんは城跡に戦死者の碑を建立し、桜の木を植樹されました。毎年春には桜まつりが開かれ、将兵や先祖の霊魂の供養をしています。田邊城址(2010.4月29日取材の様子はこちら)

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矢筈城の概要(草苅衡継の矢筈城築城)

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矢筈城の概要(草苅衡継の矢筈城築城)(2011年~2015年10月31日取材)
 矢筈城(高山城)は、津山市加茂町山下から知和にまたがる標高756メートルの矢筈山に、美作国と因幡国に勢力を有した国人領主の草苅衡継が、天文元年(1532)から翌2年(1533)にかけて築いた山城で、東西1,600メートル・南北500メートルの壮大な規模を誇る岡山県内で最大の中世山城です。

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行啓道路(津山市山下)

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 津山警察署前約半丁許の處より、東方鶴山城址櫻の馬場に直通坂路、長百四拾三間五分・巾三間の改修道路は大正15年5月23日津山城址に行啓あらさらるる 東宮殿下奉迎のため津山町が熱誠を捧げ工費約五千圓を投じ(同年4月10日起工・同4月30日竣工)修築したるものにして、行啓の當日、生徒児童並びに一般拝観者は該道の両側及び其の付近に於いて謹んで拝観の光栄に浴することを得たり。故に人呼んでこれを行啓道路云ふ實に宜なりといふべし。因に道路改修以前は、奮城の周濠を田地となせし水田にて奮郡役所の北方は一段高き土堤の上に数軒駢列せる住宅ありしを撤去せしめ其の地を掘り下げ、以って水田を埋め田町より直線の新道を開設せしものなり。

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明治27年(1894)美作津山市街図

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明治27年(1894)美作津山市街図  津山郷土博物館所蔵


明治二十四年八月御届、出版、仝二七年七月訂正出版
明治24年1月調 ・東西町数 二町、 仝 大字 四十三 ◎津山西町 戸数二千四百二十七戸、人口一万一千零七十二人 ◎津山東町 戸数 七百五十八戸、 人口 三千四百五十五人

(2014年7月30日取材)

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福井 源平の古戦場を語る新宮城址

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 福井の南部、土居の公会堂付近に、真宮神社の鳥居や花壇があり、その地点より山手へしばらく上がると、海抜204mの平坦な山頂部に達する。ここに福井と新田にまたがって古い城跡があり、新宮城跡と言われている。展望のきく南側は、広戸川に面して急峻な岩肌が切り立っており、城としては天然の要塞を思わせるものがある。
 山頂の平坦地は、南北およそ40間(約70m)・東西180間(約200m)の広さがあり、中間に長さ40間余の土塁らしきものが残されている。かっては、土塁の西側に建物の本拠があり、広い東側は、城郭内の広場や城兵糧食の耕地であったと言われている。この新宮城跡については、源平のころからの古い歴史をもつだけに詳細不明で、城主についても異説があり、名称すら新宮か真宮か判然としない面があり「東作誌」等でも謎に包まれた記述がされている。
 しかし一般にはあまり知られていないが、明治末年に書かれた新宮城の詳しい伝記本が存在している。安藤十朗氏著「霊夢 神宮山木下伝記」(和綴じ全5巻付録1巻 福井 安藤六衛氏蔵)がそれである。
 平安後期に平氏一門の木下氏が拠点として築城した様子から、源平合戦で滅亡するまでの経過を、年代をふまえて克明に記録した伝記である。2012.6~12月取材

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