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つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(2)

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 つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(1)からの続きです。今回のコースは比較的になだらかな所が多かったため歩くのが楽でした。また、事前の調査、古道の整備など「勝間田宿の会」、「土居宿を後世にのこす会」、「勝山宿の会」の方々のご努力に感謝しながら歩いてきました。


 今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第4弾として、万能乢より江見までを、「勝間田宿の会」を主催者にして、「土居宿を後世にのこす会」と「勝山宿の会」とで共催して開催いたします。また、万能乢コースと別に、古代より開けた「杉坂峠コース」がありますが、このコースは又の機会に譲り、参勤交代が始まった江戸中期(慶長9年頃)より、土居宿が設置され「万能乢コース」が開発されたので、今回は同コースを歩きます。

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出雲街道を歩こう会「江見~ノースヴィレッジ」【2】

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2021年10月24日(日)特別企画第3弾 つながる「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会「ふるさと再発見 美作国歴史遺産の古道」(区間 美作市・江見~勝央町・ノースヴィレッジ9.3Km)【2】

郷土記念物 笠懸の森
 元弘2年(1332)後醍醐天皇が隠岐に流される途中お休みになられ、武士の笠懸の技をご覧になった故事から名づけられたこの森は、現在では11本の木々に覆われ荒神様を祀る鎮守の森となっています。中には、天保年間の荒神さまの石灯籠や文久年間の墓、また、その他現在に至る記念碑など様々な石造物が笠懸の森の中に混在し、現在でも信仰の対象として祀られています。
 また、樹齢300年のムクノキの巨木をはじめ、エノキの巨樹が繁茂しており歴史の古さを物語っています。(文:現地看板より)

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出雲街道を歩こう会「江見~ノースヴィレッジ」【1】

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 2021年10月24日(日)特別企画第3弾 つながる「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会「ふるさと再発見 美作国歴史遺産の古道」(区間 美作市・江見~勝央町・ノースヴィレッジ9.3Km)【1】
はじめに
 出雲街道とは、播磨の国、姫路に端を発し、出雲の国、松江に至る約215Kmの古道を言う。また、一説によれば松江の先、出雲大社とも言われている。
 大和朝廷が、武力で全国を平定としたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和裡に国譲りが行われ、朝廷より優遇され、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。
 街道は人、物、文化を運ぶ役目を果たし、その重要性は五街道(東海・中仙・甲州・日光・奥洲)に匹敵し、同等の街道として発展してきました。
 その後の街道は時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存している道で2コース有る場合は、合理性が高いか、最も古い道を採用しています。
 今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 3弾として、美作市江見より勝央町・ノースヴィレッジまでの街道を歩きました。
主催:出雲街道 勝間田宿の会、共催:出雲街道 土居宿を更生にのこす会・出雲街道 勝山宿の会

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岡尾山 普門院 真休寺(美作市)

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岡尾山 普門院 真休寺(しんきゅうじ)
 行基菩薩の開祖といわれる真休寺は、初めは現在の美作市大山の山頂にあり、大山普門院といいました。しかし天正7年(1579)戦火に遭い、現在の所在地の美作市位田に移りました。
 初代院王は隆伝上人といい、明暦年間に住坊を造営、岡尾山普門院真休寺と名付けられました。
 昭和49年、檀信徒の篤い信仰心により本堂・庫裏の再建がなりました。その後も大師堂・山門・庫裏建立と整備が進み現在に至っています。
 境内には桜、紫や白の藤、紫陽花、石楠花、紅葉が植えられ、花の寺として四季折々を彩ります。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月20日撮影)

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園密山 泰山寺(久米南町)

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 当山は、天平勝宝6年(754)に創建されたお寺で、鑑真和上の開基です。かつての本尊は行基菩薩作の正観世音菩薩と伝えられております。現在地には昭和33年に移って参りましたが、元は久米南町泰山寺というところに伽藍が配備されていました。
 現在、新旧のご本尊を初め、仁王像などの仏像修復が進んでおります。(平成27年完成予定)。かつてのご本尊様からは、創建当時の温もりが、また現在のご本尊様不空羂索観世音菩薩からは、まるで息づいているかのようなお姿が感じられます。
 密教寺院でありながら、地獄の王たちとして知られる、十王様のお姿がお祀りされています。例えば閻魔大王や脱衣婆など、「あの世」のイメージとしてよく知られた尊像が、完全な形で拝めます。
 また、本堂向かって右側には、位牌堂を兼ねた大師堂があります。

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醫王山 感神院(真庭市)

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 感神院は木山寺の塔頭につき、縁起は木山寺と同様です。
感神院(木山寺大師堂)は享保2年(1717)に建立され、昭和30年までは木山寺本堂として使用されていました。本尊・弘法大師尊像は、日輪大師と称され、数珠の代わりに塔を持たれ、蓮台に座し、光背は光明真言の日輪になっています。また、お龕(ずし)には高野四社明神が画かれています。
 福引会陽:会陽は2月の第3日曜日に厳修され陰陽2本の御宝木(ごしんぎ)が福引で授与され、また参加者全員に御福銭が授与されます。その他、境内では柴燈大護摩供が厳修され、無病息災の火渡り、古いお札等のお焚き上げが行われます。(文:『高野山真言宗 美作霊場めぐり』より抜粋)

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高野山真言宗 別格本山感神院 木山寺(真庭市)

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 当山は高野山真言宗別格本山感神院木山寺と称し、往古は木山宮として尊信され、弘仁6年(815)弘法大師空海の開基と伝えられる。
 仁寿年間(9世紀中頃)文徳天皇の勅願寺となり、降って應永18年(1411)赤松義則が一山を寺領として寄進し、以来 毛利、宇喜多、小早川等戦国武将や、江戸時代は森、三浦の近隣大名の尊信を集めた。
 御本尊は薬師瑠璃光如来、十一面観音菩薩である 鎮守神には木山牛頭天皇と善覚稲荷大明神を祀る。木山牛頭天皇は薬師如来の化身で左手に羂索、右手に斧を持たれ、除災拓福の大願を成就される。
 善覚稲荷大明神は十一面観音の化身で左手に宝珠、右手に利剣を持たれ商売繁昌、五穀豊饒、開願成就、交通安全の願いを叶えられ、広く中国各地で崇敬帰依されている。(文:案内板より)(2021年6月15日撮影)

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疣(いぼ)地蔵(物見)

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○概要
 物見北土居に大師堂があり、そのそばの山沿いに高さ30センチメートルぐらいの六体地蔵がある。
 このお地蔵様は、疣を落としてくださるお地蔵様で、疣が出て困っている者がお参りをして、お地蔵様を六体とも転がして、「疣が出て困っている者がおりますから、疣を落としてつかあさい。落としてつかあさったら、元のように、お起こしして進ぜます。」とお願をかけ、ご利益を受けてお礼参りのとき、お地蔵様を元のとおりに起こしてあげる。疣落としに霊験のあるお地蔵様である。
 時々、お地蔵様を無雑作に転がしてあることがある。  (加茂町史より)

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出雲街道を歩こう会「勝間田宿」

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2020年9月27日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
 出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
 大和朝廷が、武力で全国平定をしたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和狸に国譲りが行われ、朝廷より優遇されて、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。街道は人、物、文化を運ぶ役を果たし、その重要性は五街道(東海、中仙、甲州、日光、奥州)に匹敵し、同等の街道として発展しました。その後の街道も時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存し得いる道で合理性が高く、最も古い道を採用しています。今回は「出雲街道(東部Ⅱ)」よりの特別企画第一弾として、勝間田宿の会の主催で、3区を歩こう会を開催いたします。(文:案内資料より)

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景清山 往生院 寶性寺(鏡野町)

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景清山 往生院 寶性寺
 縁起によると、各地で戦功のあった藤原景清が将軍足利利義詮から恩賞として当山の地を賜り、館を構え母と暮らしていました。やがて、武勇にすぐれ衆望厚い景清は、出世を妬んだものに謀殺され、悲歎にくれた母も後を負うように亡くなってしまいました。
 これを哀れんだ叔父の景明は景清母子の亡がらをねんごろに山内に葬り、弔いのため仏門に入ることを決心し、剃髪しました。そして、館を精舎としてご本尊を求めていた景明は、二宮村円通寺の地蔵尊を玉甫上人に乞い、当山のご本尊として安置しました。
 この地蔵尊は、弘法大師が諸国を行脚の折、疫病が流行しているこの地で、人々の苦難する姿を目の当たりにされ、平癒祈願をするために刻まれた地蔵菩薩とされています。
 この時貞治六年(1367)、玉甫上人を一山の開基とし、景清山寶性寺往生院と名付けられたと記されています。
 以来、藤原景清一族の位牌とお墓を供養するするお寺として、現在に至っています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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