取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「石碑」で検索した結果,160件の記事が見つかりました。

高野本郷の国道53号線沿いに立っている石碑

takanosekibutsu6.jpg

 高野本郷に立つ石碑ですが、通るたびに気になっていたので高野公民館の館長にお聞きしたら、「調べてはみたのですが、地区の方にお聞きしても解らなかった。」のだそうです。
 知人に聞いたら「享保5年を調べると、美作地方は作物が不作で8月に入ると、雨が多く田は青できとなり、見入りが心配されている矢先、9月13日(西暦 1720年 10月14日 )には大霜が降り、干害と霜害とにより大凶作となったため10月百姓の多くが津山に嘆願に出かけている。
 享保6年(1721)前年の干害、早冷えで、農作物は収獲皆無の状態になった。これらの凶作と関係があった石碑とも考えられますし、嘆願書を提出すると代表が責任を取らされ処刑されたことかもしれませんね。」とのことでした。(2018年10月24日撮影)

高野本郷の国道53号線沿いに立っている石碑の続きを読む

三種の神器八咫鏡と美作「後南朝」秘史(美咲町)

m-gonancyo20.jpg

 岡山県久米郡美咲町飯岡の郵便局前の閑静な田園の中に巨大な石碑があった。
 それは、嘗て津山市加茂町を取材しているときに見た菊の紋章のある菊水山 公卿寺や、加茂神社にあった崇道天皇の御陵、はたまた、勝北町の王子御塚社の由来八咫鏡発掘之地など、色々な天皇にまつわる伝説があり、ずっと気になっていたので知人に聞いたら美咲町飯岡に行ってみたらと教えてもらい訪れてみました。以下、碑文を記してみました。


三種の神器八咫鏡と美作「後南朝」秘史
植月御所の真相(昭和三十六年二月十五日 田中千秋著)

 凡ソ今カラ五百十八前ノ嘉吉三年癸亥十月二十九日ヨリ元禄十年丁丑八月二日マデ、二百五十四年ノ長期間二亘ッテ美作国植月庄北村、現在ノ髙根、鳥羽野両部落ヲ中心二、後南朝正系初代髙福天皇ヨリ、九代良懐親王二到ルマデノ隠レタ天皇ノ行宮ガアッタ。此ノ様ナ厳然タル歴史的事実ガアル事ヲ考エルトキ、今マデノ日本ノ歴史デハ、後ノ南朝ハ大和ノ吉野地方デ絶滅シテイル事二ナッテイルガ、実際二後ノ南朝ガ在ッタノハ、美作ノ吉野地方デアル事ガ確信出来ル。

三種の神器八咫鏡と美作「後南朝」秘史(美咲町)の続きを読む

白山神社(金井)

2020-8-13hakusan8.jpg

由緒・沿革   
 白山神社は、堀川天皇の嘉承2年(西暦1108年)、現在より901年前、岸本伊豫守元親(いよのかみもとちか)が建立したものです。
 元親は、伊勢皇太神宮へ参籠の折の初夢の御教えにより、源義親(みなもとよしちか)の軍に従って、その功によって平正盛より金井村田淵城を賜りました。新恩に感謝した元親は、伊雑宮(いぞうぐう)の御祭神、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)の2神を迎えてこの地に祀り、城の鎮守としたのです。
御利益/歯痛平癒 流疫退除 安産守護

白山神社(金井)の続きを読む

東宮殿下御成婚記念橋(西寺町)

寺町の橋4.jpg

 泰安寺(西寺町)前に架かる東宮殿下御成婚 記念橋を撮影してきました。吉井川支流の「藺田川」(小田中~南新座)に架かる歩行者専用橋です。
 この橋は、大正13年(1924年)に皇太子(昭和天皇)の御成婚を祝して、当時の南新座青年団が発起人となり、近隣の方々の寄附によって造られたそうです。側には東宮殿下御成婚 記念橋」という記念の石碑があり、橋の竣工のために、寄附した方々や世話人の名前が刻んでありました。その世話人の中に、夏木マリさんの、父方の曽祖父中島啓次郎さんの名前があります。(写真:2017年2月4日撮影)

東宮殿下御成婚記念橋(西寺町)の続きを読む

石敢當(林田)

6-4sekkantou7.jpg

 石敢當(いしがんとう、いしがんどう、せきかんとう、せっかんとう)と呼ばれます。辞書によれば「災いを除くため、橋・門・路上の要所などに建てた石碑」とあります。中国・朝鮮を経て日本に伝来したもので、主に九州地方に多く見られます。一説には「石」は人名、「敢闘」は向かうところ敵がないという意味とも言われています。(文:城東マップより)(2020年6月4日撮影)

石敢當(林田)の続きを読む

野介代の石碑

n_hi7.jpg

 いつも通る度に気になっていたのでここらで一度調べてみようと思い、昔の写真を拾い出してきました。(撮影2014年7月25日)この石碑には「奉供羪大峯三拾三度為現當二世菩提碑 寶法印敬白」(たぶん?)と書かれている。今年になって知人にお聞きしたら、下記のお返事が来ました。
「供養のための石碑のようです。三十三の文字が見え調べてみました。
三十三とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来している。」とのことでした。解明でき良かった。

野介代の石碑の続きを読む

左:出雲、右:京大阪道。坪井町東角に道しるべ

michishirube1.jpg

 現在、津山郷土博物館の前に、「左・出雲」、「右・京大阪、左・一ノ宮」、右・出雲」、「明治16年8月建之、坪井町」と刻まれたあ石碑が建てられている。この石碑の文字はもう少し続くが、埋められているためこれ以上判読することはできない。この道しるべについて、今井三郎さん(故人)は『津山坪井町の歩み』の中で次のように取り上げている。
「坪井町一番地の東南の角、道路に沿って大きな津山石製の道標があった。いまは撤去され、津山郷土博物館に保管してある。高さ五尺(約1.5㍍)、幅九寸(約27㌢)の四角柱形の立派なもの。文字は赤松寸雲先生。時代のずれと舗装道路改修で廃棄された。文字は"右・京大阪、左・一ノ宮""右・出雲街道""明治16年8月建之、坪井町、志茂意平、田口半治郎、片桐秀吉"とある」

左:出雲、右:京大阪道。坪井町東角に道しるべの続きを読む

石造無縫塔(加茂町塔中)県指定重要文化財

monjyu-tou1.jpg

石造無縫塔(津山市加茂町塔中) 県指定重要文化財
 無縫塔とは、鎌倉時代に禅宗とともに中国大陸から伝えられた石塔で、基礎の上に卵形の塔身が置かれており、卵のように縫い目のない作りから無縫塔または卵塔とも呼ばれています。基礎と塔身の間に柱状の笠と中台をもつ複雑な形状のものを重制、それがないものを単制といいます。禅宗寺院の僧の墓にしばしば用いられています。
  この無縫塔は、津山市加茂町塔中にある文殊堂の裏手にあり、隣の宝篋印塔とともに県の重要文化財に指定されています。かつてこの場所には、天龍寺(京都市)を本山とする末寺があったとされています。総高123㎝で、八角形の基礎、笠、中台の上に塔身を置く重制の無縫塔です。銘文はありませんが、その様式から室町時代初期に建てられたものと考えられます。宝暦12(1762)年に天龍寺がこの地を調査して、無縫塔を夢窓国師のもの、宝篋印塔を開山宝山和尚のものと認定したということが脇に建てられた石碑に刻まれています。

石造無縫塔(加茂町塔中)県指定重要文化財の続きを読む

合祀されている大日如来とお薬師様(福井)

fukui-daishi6.jpg

 福井の小字本平集落の西側は、丘陵性の山地であり、それぞれの谷筋に山道がついている。集落北端の山麓山道を少し上がると、谷筋に南面して仏様を祀っている比較的新しいお堂(逗子)がある。標札に「勝南霊場第弐拾弐番 御本尊薬師如来」とはっきり書かれている。また、内部の板には、「金剛三昧院第七五番 札所」とある。
 これが、本平の住民がお参りしえいるいわゆる「おやくしさん」である。さらに、祭壇を見ると、光背をもった小さな薬師様の像と共に、高さ1m近い梵字の刻まれた石碑が並んで祀られている。
 石碑の正面は、珍しく全て梵字で書かれており、この石碑は、本格的な信仰対象の石仏様であることが分かる。
 側面に「延享元甲子天十月二八日」と刻まれている。延享元年は1744年であり、徳川吉宗の政治が行われていた江戸時代半ばのかなり古いものである。清瀧寺さんの解読で判明したとのことであるが、梵字の石仏は、「大日如来」の仏様であり、河面の旧真加部街道筋の大日如来とは類型を異にしている。

合祀されている大日如来とお薬師様(福井)の続きを読む

美作の大庄屋巡り「大倉家 大倉正左衛門 浜田藩(鶴田藩)」

okura7.jpg

大倉家 大倉正左衛門 久米北条郡和田北村 浜田藩(鶴田藩) 
大庄屋まで 
 家伝によれば、遠祖は後白河法皇の近臣の一人平資行という。彼は『平家物語』に出ている鹿ヶ谷事件で美作に配流され、一族は大倉を名乗ったという。神楽尾城主大蔵甚兵衛はこの流れをくむといわれている。 弘化2年(1845)から、大倉正左衛門が南組の大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 美作に移った浜田藩は、慶応3年鶴田藩に名を変えた。藩主をはじめ4千人ともいわれる家臣とその家族の生活を支えた領民は大きな負担を強いられた。正左衛門たちは、藩への献金や借金の交渉と返済などの処理に廃藩後まで尽力した。慶応4年、新たに編入される村を早急に決定してほしい旨を幕府に嘆願し、美作5郡の95か村が鶴田藩に編入された。大倉家には大量の文書が残されている。
所在地
 古くから垪和郷の信仰を集めた一ノ宮八幡神社がある。

美作の大庄屋巡り「大倉家 大倉正左衛門 浜田藩(鶴田藩)」の続きを読む