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取材記事内を検索ワード「寺」で検索した結果,920件の記事が見つかりました。

鶴山城址碑(鶴山公園内)

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城のとりこわし
 津山に郵便局ができたのは明治四年、そのときは郵便取扱所といっていた。局の名になったのは明治八年正月であった。明治六年には新しい紙幣ができて旧藩札の通用が停止された。北条県では十一月六日から三日間、吉井川のぞきの川原で四百二十四万枚の藩札を焼いた。
 衆楽公園の設立許可は明治六年四月のこと。津山城のとりこわしも、このとしから準備がはじまった。というのは、二月二十八日付けで大蔵省へ出した北条県からの届けによると
城郭存廃未だ御達し之れなく候へ共、昨夏陸軍省官員巡回のみぎり、やぐら門、石壇すべて払い下げに相成候条入札差し出すべく旨、指示につき去秋取りまとめ、同省へ送達に及び候間、御省へ御引送り相成候儀と存じ奉り候、就いては廃城御決定必然の儀と存じ奉り候。郭内地所払い下げ等御規則照準取計申し候。
とある。こわす段取りを急いでいることがわかる。存置しようという考えは毛頭なかった。そして、実際に取りこわし工事は明治七年六月からであった。約十ヵ月をかけて津山城は完全に姿を消した。

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大谷碧雲居 文学碑(文化センター東)

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秋風や城といふ名に石枯るる(津山文化センター東 薬研濠東)
 明治18年、岡山県苫田郡生、昭和27年没。昭和20年、東京から疎開し津山市田町に住む。師の渡辺水巴没後、俳誌「曲水」の二代目主宰者となる。句風は穏やかで曇りなく、絵画的な美しさを持つ。(文:津山文学碑めぐり案内)(2015年10月25日撮影)

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薄田泣菫 文学碑(長法寺)

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 「銀杏よ、汝常盤木の神のめぐみの緑り葉を 霜に誇るに比べては何等自然の健児ぞや・以下略」
 明治10年、倉敷市生。昭和20年没。津山に心ひかれ訪れた泣菫が長法寺の大いちょうを見て創った「公孫樹下にたちて」は詩集「二十五弦」の巻頭を飾る。一年後に発表された「白羊宮」は明治誌史上の絶品と言われている。(文:城下町 津山文学碑めぐり)

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【津山人】駒井匏軒翁碑(鶴山公園内)

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 駒井匏軒は幹夫津山候に仕へて先手弓頭となり祿五十石を食み、學問所教授を兼ぬ。兵學に通じ詩歌に巧に又書を善くす最も明楽に精通し特に横笛の妙手たり。晩年惟を垂れ名けて啓蒙學舎と曰ひ廣く青年子弟を数ふ。明治十二年七月歿す。歳五十六。匏軒文稿同詩稿の著あり家に藏す。(文:苫田郡誌より)(2017年6月14日撮影)

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2018 千光寺のツバキ

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2018年3月14日城東地区の寺下通りを散歩していたら、千光寺の駐車場の枝垂桜の蕾が大きく膨らんでいました。もうすぐ咲くのが楽しみですね。また、千光寺のツバキの花が咲いています。とても綺麗です。お花や香りを楽しみながらゆっくりと散歩してはいかがでしょう。

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【津山人】故郷を愛した人情作家 棟田 博(むねたひろし)

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棟田 博(むねたひろし) ー故郷を愛した人情作家ー
 「降るかとみればやみ、やむかと思えば降り、昨夜は危ぶまれたが、今朝は雲も見せぬ快晴である」と書き出しているのが「分隊長の手記」である。これが棟田博のデビューになった。彼が「赤紙」の戦時召集をうけたのは昭和12年、岡山の歩兵十聠隊に入ると第二次補充部隊要員として、北支の赤柴部隊に加わることになっていた。そして同13年5月の徐州会戦のとき、台児荘の戦闘で負傷、戦列を離れた。短い戦場体験であった。棟田は正規の徴兵検査に合格、軍隊生活をおくっていたので伍長になっていた。召集で分隊長であったのはそのためだ。「分隊長の手記」は14年3月号の「大衆文芸」から連載されたが、11月には単行本になって、翌年1月までの僅かな期間に30版を重ねた。すごい人気のデビューになったが、それには次のエピソードがあった。

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津山武道学園主催の「武道体験スタンプラリー」が開催されました。

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 2018年3月4日(日)抜けるような晴天の下、津山総合体育館(津山市山北)において、津山武道学園主催の「武道体験スタンプラリー」が開催されました。体育館のアリーナでは、武道学園の構成団体である、7団体(柔道・剣道・合気道・空手・弓道・相撲・少林寺拳法)がそれぞれ趣向を凝らしての紹介コーナーで、来場者に楽しんでもらおうと頑張っていました。お昼過ぎにはイベントも無事終了し、洗い物や屋台村の後片付けも済みました。(上記写真は柔道連盟のコーナーです。)

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医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米町

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医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米郡 (2014年9月17日取材)
天台宗の寺院である。作陽誌には嘉祥三(850)年の建立とあり、又、貞観二(860)年三月、天台座主慈覚大師が、清和天皇の勅命を奉じて建立したものともされている。何れにしても平安前期の開山創立ということになる。往古は十二坊もあったといわれるが保元年中(1156~1159)火災により末房悉(ことごと)く消失した。それから約六百年ばかりの間は様子がわからないが、江戸時代になって天和二(1682)年五月梁行二間、桁行二間の本堂が建てられ、それから九年の目の元禄四(1691)年三月十二日には庫裏が建築された。庫裏は敷坪十二大工、備前國奥(邑久)郡上山田村、光義次左衛門となっている。それから五十五年目の天明三(1783)年には鎮守八幡堂・門・飛境内の観音庵・大日堂が出来上がった。

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光伯地蔵様(西吉田)

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光伯様納涼祭【勝南霊場30番札所】
 光伯地蔵堂は、出羽国湯殿山本道寺の修行僧が六十六部の経典を納めながら諸国を巡っていましたが、西吉田村で亡くなってしまったとのことです。村人が街道沿いに葬ったところ、その後墓に参ると、足の病が治るとの言い伝えが広まり、美作近郷を始め、亰、大坂からも人々が参るようになりました。現在、平成3年に建て替えられた新しい地蔵堂に安置されています。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)

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