お里んの碑(故郷を愛した人情作家 棟田 博)
故郷を愛した人情作家 棟田 博(明治41~昭和63)が、故郷を題材にした作品『ハンザキ大明神』、『美作ノ国吉井川』、『宮本武蔵』、『そして、御犬小屋が残った』などがあり、多くがドラマ化された。なかでも吉井川を往来していた高瀬舟をテーマにした『美作ノ国吉井川』の女主人公・お里んの碑が津山市民の手で愛染寺に建てられた。昭和47年には津山市文化賞を受賞している。
故郷を愛した人情作家 棟田 博(明治41~昭和63)が、故郷を題材にした作品『ハンザキ大明神』、『美作ノ国吉井川』、『宮本武蔵』、『そして、御犬小屋が残った』などがあり、多くがドラマ化された。なかでも吉井川を往来していた高瀬舟をテーマにした『美作ノ国吉井川』の女主人公・お里んの碑が津山市民の手で愛染寺に建てられた。昭和47年には津山市文化賞を受賞している。
茶屋林道標(勝北町杉宮) 町文化財(石造物) 昭和50年4月1日指定
茶屋林の旧国道沿いに立っている道標で、南面に 右金森山新善光寺道、西面に 左いなばみち、東面に 宝暦四(1754)五月吉日造之 と刻まれている。
高さ85㎝ 巾17cm~18cm
この道標のかたわらに、一本の根上りの大きな松があったが、マツクイムシの被害をうけて枯れる。
むかし、津山から、勝北、奈義の村むらをとおり、黒尾峠を越えて鳥取に行く道は「因幡街道」と呼ばれ、このあたりは、街道を往来する人びとの憩いの場所でもあった。
美作忠魂碑
美作五郡の各寺院が、よくまとまったのは地理的にも北条県の伝統があるが、実はすでに明治末年に協力の実績を築いていた。というのは津山町所在の仏教各宗協議所なるものが、本源寺に設けられていた。明治三十八年の十一月、ここで日露戦争の戦死者のため記念碑を建てようという相談ができた。当時苫田郡長をしていた小沢泰にこれをもちかけたところ、町長をしていた矢吹金一郎に相談してやれということになり、矢吹と仏教各宗代表が基礎案をつくった。これが鶴山公園にできた美作忠魂碑の出発であった。結局津山だけのものでなく、美作一円のものにしょうと、神職や有志に呼びかけ募金に着手したのである。費用三千円計画で募金運動をはじめたが難航したようだ。しかし努力が実り、四千三百余円を集めたものの、予定より費用も高くつくので、継続して募金をしつつ、第一回招魂祭を、四十年の四月二十一日にしている。この日が後年毎春の招魂祭の日となった。
津山城
津山城は1604年(慶長9年)に着手され、13年後の1616年(元和2年)に完成しました。
この場所は鶴山を中心とする一帯で、藩主にとっては城下町をつくり、常備軍をひざもとにおいて不意の戦争に備え、農民に対して武士の力強さを誇示できると同時に、藩内の統治にもっとも便利な場所として選定されたものと考えられます。
形式は丘陵とそのふもとをとりいれた平山城で、縄張(郭.堀.城壁.虎口等の配置規模を決めること)は巧妙で、また施設も堅固にできており、本丸を守るためにとてもよく考えてつくられています。
山頂に本丸を定め、その西部か堅固な石垣で区切って、ここを天守曲輪とし、中央に五層の天守閣が設けられています。その東側と本丸を東北に向けて強く張り出させたところには特に髙い石垣を築いて櫓を点在させています。また、北側の急斜面はこれを利用して坊塁を築き、東側のがけは急な勾配で宮川に面しているので、そのまま防備に利用されています。
王子御塚社の由来(後南朝第三代忠義天皇陵)
1442年(嘉吉2)99代後亀山天皇長男小倉宮良泰親王第四皇子尊義親王、植月御所で即位、御南朝高福天皇と称し年号を天晴と、改元1446年2月15日高福天皇第二皇子忠義親王誕生、1458年第二代興福天皇崩御の後、第三代忠義天皇と称し即位、その後10年、1467年京郷に応仁の乱起こり、山名宗全が忠義天皇を京都に迎え、1471年京都北野梅松院に入御の後、安山院に天皇ろとして遷座ましますが応仁の乱後、山名刑部少輔清成と共に植月御所に遷幸、皇子尊朝親王に譲位し金森山新蔵坊(新善光寺)に隠居をなし禅定法皇と称す、1480年(文明12)3月17日、35歳にして崩御、この地に葬れりと伝えられる。平成8年10月8日 謹書(文:案内板より)(2018年1月6日撮影)
2018年1月6日(土) 10:00 〜 2018年2月12日(月) 17:00 棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)にて「四天王と十二神将」池田泰弘切り絵展が開催されています。今回の展示作品は、斎藤晃久・春江夫妻展『四天王と津山桧』で好評だった作品が飾られています。池田さんは、昭和63年久米南で生まれ平成19年に誕生寺養護学校在学中に岡本裕先生のもと切り絵と出会ったのが縁だったそうです。池田さんは、平成19年3月アルネ津山アートギャラリー2に於いて中国三国志人物剪紙切り絵展を開催されたのを皮切りに現在まで数多くの個展を開いて活躍されておられます。
1868年(明治元年)3月3日に美作加茂で生まれる。万年筆業界の先駆者で「田中大元堂」を経営。加茂西小学校に図書館を建設、奨学資金を贈るなど児童育成に貢献し紺綬褒章を授与される。サムハラ大神をあつく信仰していたため日清戦争と日露戦争で数々の危難をまぬがれ、サムハラ大神の霊徳を世の人々に分かつため私財でサムハラ神社を建立。神前扉材は伊勢神宮より賜った。戦時中に兵士にお守りを贈る活動をしていたが、戦後も小判の形のお守りを自費で作成し無料で人々に配布していた。多くの要人にも贈呈をした。90歳までは自転車を乗り回すことも平易だった。97歳の時でも壮健であり自らを青年と称した。「信仰は万益有って一害なし」と常に提唱。毎朝参拝を欠かしたことはなかった。1967年(昭和42年)12月3日逝去。享年100。サムハラ神社境内に胸像がある。宮司は養子が継いだ。(文:ウィキペディアより)
幕末、津山藩と幕府や朝廷の間で活躍した武士の一人に、鞍懸寅二郎がいます。
寅二郎は赤穂藩(兵庫県)の出身でしたが、若いとき江戸で儒学を学び、津山藩の学問世話掛かりとなり、幕府や他の藩との交渉役などをつとめました。また改政一揆では、民衆の説得に当たり、一揆をしずめました。
明治になり、徳川の親戚である津山藩は、朝廷の敵とみられましたが、寅二郎は藩内をまとめ、津山藩が新政府に従うことを、政府や周りの藩に伝えました。
その後寅二郎は、藩の代表として活躍する一方、政府の役人として、廃藩置県などの仕事を進めていましたが、1871年、津山で何者かに殺されました。
極楽山 光厳寺は、1614年(慶長19)に院庄にいた豪商蔵合氏の願いにより、院庄の清眼寺住職秀照により建てられました。本堂は当時のものといわれ、本尊は不動明王です。子育て不動として有名で、多くの人がお参りしています。不動明王像は、船頭町の田原屋六兵衛が牛窓沖から引き上げられたといわれる等身大のもので平安末期頃に作られたものです。
蔵合は森忠政の城下町づくりのため、二階町の日専連・津山中央クリニック辺りに呼び寄せられました。初代は隠居秋庵孫左衛門、2代目は山口祐雪。本名は山口氏でしたが、屋号が蔵合屋と名のっていたので2代藩主森永継から「ぞうごう」と呼ばれ、苗字を蔵合と変えました。蔵合山口氏ともいわれました。
2017年12月23日・24日福岡 ヤフオク!ドーム (福岡県)である「B'zライブコンサート」に向かうママです。前日の22日に津山線で岡山駅着、新幹線に乗り継ぎおよそ3時間と少しで福岡駅着。そこからサムハラ様に縁のある所が福岡にもあるとの情報を得て、ママのお友達が手配下さった車で、福岡県糸島市雷山にある「雷山千如寺大悲王院」にお参りすることに。ここでサムハラ様のお守りが売られていたので買ってきました。写真はパワーを浴びるママです。この後、ママたちとは別行動でした。