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お釈迦様の生誕を祝う「花まつり」が衆楽園でありました。

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 2018年4月5日(木)衆楽園内迎賓館で行われた「花まつり」は、4月8日のお釈迦様の誕生日を祝う仏教行事です。日本では明治以降「花まつり」とも呼ばれ、各地域のお寺でお祭りとして根付いていきました。津山市仏教会・同檀信徒協議会では、沢山の子ども達に参加してほしいと春休み期間中の4月5日に執り行いました。当日は、午前10時から、法要・法話、午前11時から園内行道、午前11時30分から、バルーンアート等のアトラクションもあり子ども達が健やかに育つようにと親子で参加されていました。最後に子ども達にはにお菓子が配られたそうです。

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【津山人】士魂商才の実業家 磯野計(1858-1897)

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 2018年3月3日、津山市川崎にある津山東公民館で「津山市公民館講座 演題:士魂商才の実業家 磯野計ー世界のベスト(最良品)を日本へー」と題して、元津山洋学資料館館長の下山純正さんが磯野計の生涯を色々なエピソードを加えてお話してくださいました。

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鶴山城址碑(鶴山公園内)

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城のとりこわし
 津山に郵便局ができたのは明治四年、そのときは郵便取扱所といっていた。局の名になったのは明治八年正月であった。明治六年には新しい紙幣ができて旧藩札の通用が停止された。北条県では十一月六日から三日間、吉井川のぞきの川原で四百二十四万枚の藩札を焼いた。
 衆楽公園の設立許可は明治六年四月のこと。津山城のとりこわしも、このとしから準備がはじまった。というのは、二月二十八日付けで大蔵省へ出した北条県からの届けによると
城郭存廃未だ御達し之れなく候へ共、昨夏陸軍省官員巡回のみぎり、やぐら門、石壇すべて払い下げに相成候条入札差し出すべく旨、指示につき去秋取りまとめ、同省へ送達に及び候間、御省へ御引送り相成候儀と存じ奉り候、就いては廃城御決定必然の儀と存じ奉り候。郭内地所払い下げ等御規則照準取計申し候。
とある。こわす段取りを急いでいることがわかる。存置しようという考えは毛頭なかった。そして、実際に取りこわし工事は明治七年六月からであった。約十ヵ月をかけて津山城は完全に姿を消した。

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大谷碧雲居 文学碑(文化センター東)

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秋風や城といふ名に石枯るる(津山文化センター東 薬研濠東)
 明治18年、岡山県苫田郡生、昭和27年没。昭和20年、東京から疎開し津山市田町に住む。師の渡辺水巴没後、俳誌「曲水」の二代目主宰者となる。句風は穏やかで曇りなく、絵画的な美しさを持つ。(文:津山文学碑めぐり案内)(2015年10月25日撮影)

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薄田泣菫 文学碑(長法寺)

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 「銀杏よ、汝常盤木の神のめぐみの緑り葉を 霜に誇るに比べては何等自然の健児ぞや・以下略」
 明治10年、倉敷市生。昭和20年没。津山に心ひかれ訪れた泣菫が長法寺の大いちょうを見て創った「公孫樹下にたちて」は詩集「二十五弦」の巻頭を飾る。一年後に発表された「白羊宮」は明治誌史上の絶品と言われている。(文:城下町 津山文学碑めぐり)

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【津山人】駒井匏軒翁碑(鶴山公園内)

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 駒井匏軒は幹夫津山候に仕へて先手弓頭となり祿五十石を食み、學問所教授を兼ぬ。兵學に通じ詩歌に巧に又書を善くす最も明楽に精通し特に横笛の妙手たり。晩年惟を垂れ名けて啓蒙學舎と曰ひ廣く青年子弟を数ふ。明治十二年七月歿す。歳五十六。匏軒文稿同詩稿の著あり家に藏す。(文:苫田郡誌より)(2017年6月14日撮影)

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2018 千光寺のツバキ

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2018年3月14日城東地区の寺下通りを散歩していたら、千光寺の駐車場の枝垂桜の蕾が大きく膨らんでいました。もうすぐ咲くのが楽しみですね。また、千光寺のツバキの花が咲いています。とても綺麗です。お花や香りを楽しみながらゆっくりと散歩してはいかがでしょう。

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【津山人】故郷を愛した人情作家 棟田 博(むねたひろし)

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棟田 博(むねたひろし) ー故郷を愛した人情作家ー
 「降るかとみればやみ、やむかと思えば降り、昨夜は危ぶまれたが、今朝は雲も見せぬ快晴である」と書き出しているのが「分隊長の手記」である。これが棟田博のデビューになった。彼が「赤紙」の戦時召集をうけたのは昭和12年、岡山の歩兵十聠隊に入ると第二次補充部隊要員として、北支の赤柴部隊に加わることになっていた。そして同13年5月の徐州会戦のとき、台児荘の戦闘で負傷、戦列を離れた。短い戦場体験であった。棟田は正規の徴兵検査に合格、軍隊生活をおくっていたので伍長になっていた。召集で分隊長であったのはそのためだ。「分隊長の手記」は14年3月号の「大衆文芸」から連載されたが、11月には単行本になって、翌年1月までの僅かな期間に30版を重ねた。すごい人気のデビューになったが、それには次のエピソードがあった。

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