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取材記事内を検索ワード「観世音菩薩」で検索した結果,61件の記事が見つかりました。

中部 第四十四番霊場(桑下)旧久米町

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 久米町史によれば観世音菩薩とあり、中の地蔵には、神實山 願主 信州竹馬群今井村・・・と彫ってあります。この霊場は、慈恩寺の案内石柱があるとおり、慈恩寺へ行く途中の急なカーブの所に立っている中部 第四十四番霊場です。「昔は20人~30人の方がお参りに来られて賑やかでしたが、今では少なくなって10人程の方がお見えです。」と慈恩寺さんから教えていただきました。(2014年9月18日取材)

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頼久寺(らいきゅうじ)庭園 (高梁市)

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頼久寺由来
天柱山安国頼久禅寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、暦応2年(北朝年号1339年)足利尊氏が再興して備中の安国寺と号した。当時、中国より帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。後に永正年間(1504年)松山城主上野頼久公が大檀越となり寺観を一新し大永元年逝去したので、頼久の二字を加えて安国頼久寺と寺号を改称した。 尚、当山御本尊は、聖観世音菩薩で備中西国第五番の札所であり、昭和60年3月に開創された瀬戸内観音霊場第十三番の札所である。(2016年4月23日取材)

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福本観音堂と地神様(坪井上)

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お大師めぐり(久米・苫田八十八ヶ所霊場)弘法大師信仰で四国八十八ヶ所霊場を巡拝するには余の規模が大きすぎるので、地方にそれぞれ八十八ヶ所をつくり巡拝するもので、福本観音堂は八十番札所となっている。本尊は観也音菩薩である。
参考 安清は阿弥陀如来が本尊。八十一番札所、木原は阿弥陀如来で七十九番札所(文:北恵兆さん)

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楞厳山 慈恩寺の巨大な十一面観世音菩薩像(津山市林田)

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楞厳山 慈恩寺:観音堂内、本体約4.6メートルの巨大な十一面観世音菩薩像は、樹齢約2000年の「木曽檜」の一木彫りで造られている仏像です。四方を囲う四天 王像も約3メートルもあり、樹齢1800年の「姫小松」の一木彫り。制作年月日は大正初期から約6年間かけて作成されたもの。(2015年6月13日・6月22日取材)前回の取材はこちらをご覧ください。


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宇多山 圓光寺(久米川南)旧久米町

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 当山は天台宗二祖慈覚大師の創建による。
 今からおよそ1150年の昔、開祖された円光寺は、当時その他に大日堂、薬師堂、西光寺、因果寺、宝林寺等の多くの諸堂があった。しかし、天文、永禄(1559年)の頃から次第にすたれはじめ、元禄2年(1689年)には、現在の円光寺だけとなった。
 仁和3年(887)~寛平9年(897)代に精舎の創建を見るに至ったと伝えられている。当時は、宇多天皇の宇多をとって宇多寺と呼んだ。(2014年3月29日)

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観音寺(作東モミジ寺)美作市

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観音寺本堂
 当山は、天正7年兵火に罹災したが正徳4年中興第七世諦範上人が観音堂を再建立、のち文化元年に文暁法印が入母屋造り流れ向拝の現本堂を再建したが、草屋根の損傷が激しく約二百年を経た平成二年銅板葺により復元大修理を施工したものである。
 御本尊は、木造十一面観世音菩薩坐像(秘仏)で宝永7年の記録によれば天平年間にこの寺を開創した行基菩薩の御作と伝える。
 御開扉は、33年目ごとに行われ最近では昭和41年に高野山真言宗管長津田實雄大僧正の御親教により奉修された。(文:立札より)2014年11月16日取材

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龍頭山 善應寺(津山市大篠)

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龍頭山 善應寺 縁起
天台宗 本寺 滋賀県大津市 比叡山延暦寺。開基/貞観二痍辰年(860)慈覚大師円仁。本尊/聖観世音菩薩 行基作。脇侍/不道明王 毘沙門天。
当山は比叡山延暦寺第四祖慈覚大師が美作の国を御巡教の際、美作一の宮である中山神社にご参籠の折、東北の山頂に紫雲のたなびくのを見て、霊地のある事を知り、深山に分け入られると、にわかに甘露が降り、雲中より蟠龍が、頭を挙げて、大師の登山を歓び迎える様をしたので、山号を龍頭山と名付け大師護持の一寸八分の観音像を本尊の体内に納めて当寺の本尊とし、一字の草堂を建立されました。(善應寺2014.6.29取材)

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法光山 妙宣寺(津山市草加部)

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 内陣の観世音菩薩・鬼子母神・日蓮聖人は明治43年に中山法華経寺の百日大荒行 五行満行の日善上人よって勧請されており、開創は法華経信仰を貫いた日賢上人の霊感法力に縁る御祈祷ご祈願のご利益霊験灼な寺院です。平成4年に現在の地に新築移転された本堂は六間七間に三斗組を配し、二重織り上げ天井や二軒垂木を用い回廊を設けた本格的な建築様式。(2013.10.22取材/情報提供:妙宣寺)

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法然上人が修行した 高貴山 菩提寺

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菩提寺略縁起
 当山は、お念仏「南無阿弥陀仏」の元祖で、浄土宗を開宗されました「圓光大師法然上人」が、初めて仏教を学ばれた聖域にして、浄土宗史蹟であります。
 その草創は、持統天皇(41代)朱鳥6年(692)役の小角神変大菩薩が名木の神山(那岐山)に霊地を求め、この地に修験道場を開き、後に天平年中、聖武天皇(45代)の勅願によって行基菩薩が自ら十一面観音像を刻んで中堂に安置し、「元明天皇(43代)の菩提寺」として再興開基し、七堂伽藍三十六僧坊を建てめぐらし、四宗兼学の学問道場として各地から学僧が蝟集し、その興隆数百年に及んだ。
 その間"法相""天台""浄土""真言"と各宗変遷をたどり多くの名僧を輩出したが、殊に法然上人(幼名勢至丸)9才(1141)から13才まで、父漆間時国公の遺言によって、母方の叔父、勧学得業上人のもとで学問を始められた史実は、勅修「法然上人行状絵図」(四十八巻伝)に伝えられる処です。
 往古の伽藍の様相を、僅かに残る中古の記録によると、'本堂九間四面""観音堂五間四面""鎮守堂四間四面""不動堂二間六面""鐘堂二間四面""通堂九間"等々記されており、広大な規模を彷佛とさせられるものがあります。
 数百年の繁栄も、この地が険要であったが為、地方豪族の拠点として菩提寺城等の城砦を築き、戦国乱世に頻りに災禍を受けてついに天文2年、尼子義久の焼打によって、悉く灰燼となって以来衰微の一途を辿り、江戸末期僅かに残る草庵も焼失し、無檀、無禄につき復興のめどなしとして、一旦は廃寺となったが、法然上人遺蹟地の故、明治十年寺名再興浄土宗復宗の官許を得て作因両州近郷近在の檀越、信徒共々信心を凝して本堂再興(明治十三年)、以来現在に及んでいる。
1、本尊:十一面観世音菩薩 座像、嵯峨大覚寺から文久元年招来。
2、阿弥陀如来:芝増上寺から蔓延元年招来
3、勢至丸像:勢至丸様(法然上人幼名)の霊像で、阿弥陀如来と共に奉納された唯御一体の圓光大師少年姿、冷泉為恭の作。
4、守護神:摩利支天王を勤請し、境内の守護神として巌上に御鎮座
5、観覚塚:勢至丸様初学の師、観覚得業上人の御墓、熊谷蓮生(直実)の建立と言われる、石塔は近年の建替え。
6、大公孫樹:勢至丸様9才入山の際携えた、いちょうの杖を「我、未来に弘めんとする法門盛んならば、必ず繁生せん」と本尊に誓って挿し木したと伝えられている。
果たして念仏の興隆と共に繁茂し、目通り13m余高さ40m余の巨樹となり、昭和3年国の天然記念物に指定された。
資料提供:高貴山 菩提寺(2012年11月14日取材)

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岩間山 本山寺(美咲町)法然上人ゆかりの地

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天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)

 大宝元年(701)頼観上人の創建で、本尊は観世音菩薩である。当初は南方の山頂に在ったが、天永元年(1110)現在地に移り、大いに発展して百廿十坊と言われた。
古来、山岳仏教の道場として、又、庶民信仰の霊地として栄えた。長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)である。降って江戸時代になると、津山藩の祈願所として、尊ばれ、又、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であった。山内寺院のうち、遍照院・仏性院・梅元院の三院が院内頭であったが、今では皆、合併して本坊一ヶ寺となった。現在の境内地は四千二百坪、十余棟の堂塔伽藍は、昔に変らぬ面影を伝えている。
国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)
県指定文化財、常行堂(1519)、御霊屋(1652)、仁王門(1686)、長屋(1845)、宝筐印塔(1399)、鬼面(1362)、六角型舎利塔(1344)、絹本著色両界曼荼羅図二幅(鎌倉末期)
美咲町教育委員会 (案内板より)

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