田熊の舞台 防災施設改修記念イベント
田熊の舞台 防災施設改修記念イベントが2019年10月26日(土)田熊八幡神社(津山市田熊2384)でありました。国指定の重要部系民俗文化財である田熊(たのくま)の舞台で、防災施設の改修完了を記念して太鼓や獅子舞、漫談、舞踏などが上演され、来場された方々は可愛い子どもの踊りをはじめ夢小路あきまろさんの漫談等で大いに楽しんでおられてました。
田熊の舞台 防災施設改修記念イベントが2019年10月26日(土)田熊八幡神社(津山市田熊2384)でありました。国指定の重要部系民俗文化財である田熊(たのくま)の舞台で、防災施設の改修完了を記念して太鼓や獅子舞、漫談、舞踏などが上演され、来場された方々は可愛い子どもの踊りをはじめ夢小路あきまろさんの漫談等で大いに楽しんでおられてました。
令和改元"天皇陛下御即位"奉祝事業『令和だんじりまつり・祝賀パレード』
改元の年にあたる本年は、即位礼正殿の儀が執り行われた10月22日(火・祝日)に、津山まつりに関係する3神社のだんじり、巡行だんじりを含む計29台(県重要有形民俗文化財22台)が中心商店街に展示され、大隅5台、徳守1台、高野1台の計7台が午後6時、中心商店街のアーケードを出発し、観光センターまでの約1km祝賀パレードを行い観光センター駐車場では約3,000人もの方が集まって万歳三唱して盛大に天皇陛下の御即位をお祝いしました。また、坂本雅幸さんによる和太鼓演奏もありました。こんなに大勢の皆さんが集まるとは思っていなかったので正直びっくりしました。
福井の本平集落の西側は、山地となっているが、そこに井ノ奥谷(いのおくたに)と呼ばれる谷がある。そこには、明らかに半ば削り取られたとわかる古墳があり、その中央部分を平らにして、早神様(はやがみさま)と言われる小詞が祀られている。また、その後側のすぐ近くに、井上一族のこれまた珍しい先祖社が祀られている。
所在は、井ノ奥谷に入ってすぐ山際北斜面である。
その場所は、かつて森藩政のもとで、福井村の大庄屋であり、福井八幡宮の軒札にも名前が記載されている井上五良兵衛(いのうえごろべえ)の屋敷があったすぐ裏手の山である。井上五良兵衛の庄屋屋敷は、今は全く畑となっているが、屋敷裏の谷には、いまも防火用水池のあとが残されている。その池付近から、この古墳や祠を見ることができる。
津山市の埋蔵文化財センターでは、この山地に本平古墳群として、三基の古墳を登録しているが、古墳時代末期の、この早神様が祀られている古墳もその一つに該当している。
井上家 井上勘三郎 勝北郡福井村 土浦藩
家伝によれば、源頼朝に仕えた井上十郎左衛門義吉の後裔井上蔵人正清が播磨国乃井野から移住して岩黒城を築いた。一族は後藤勝基に仕え、天正7年(1579)三星城合戦で戦死した者もいた。正清の子孫が、福井村帰農したという。延享4年(1747)、土浦藩は吉野郡、勝北郡の1万9千石余を領し、天明2年(1782)大庄屋として近長村甲田猪吉、福井村井上勘三郎を任命した。
大庄屋としての記録はなく不明である。福井村正伝寺、八幡神社の延享元年の棟札に、庄屋井上五郎兵衛の名がある。
福井村は、広戸川が形成した低地と、低丘陵の村である。森藩改易後、幕府領となり、延享4年(1747)常陸土浦領となった。
津山市城西地区は、津山藩初代藩主・森忠政公が祭られている本源寺をはじめ、17か寺が集まった寺町や、城下町鎮守の徳守神社があります。大正時代に商業で栄えたこの地域で毎年秋に行われる津山・城西まるごと博物館フェアは、いまやみんなが楽しみにしている津山を代表するイベントのひとつです。クラフト展や屋台村が軒を連ねて今年も大変な人出で賑わいましたが、中でも若僧会の皆さんのウィットに富んだ明るい悩み相談の答えが大うけでした。
出雲街道原の旧道・息継ぎの井戸(原)
追分の三差路の約100m東で国道181号線と旧国道から分岐して北側の山沿いに残る、旧出雲街道は約900mあり、原地区の明谷入り口の塞の神で国道のため消えている。道中に「息継ぎの井戸」と呼ばれる古井戸がある。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
岸家 岸新兵衛 西北条郡香々美中村 森藩~松平藩
大庄屋まで
岸氏の先祖は久米南町下籾にある竜王山城主、岸備前守氏秀であるという。氏秀は伯耆尾高城主山名氏重の二男で天文年間に尼子氏に属し城を築いたが、元禄元年浦上宗景は尼子氏の衰退を見て、竜王山城を攻撃し氏秀は戦死し落城した。後裔の新兵衛が森藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
津山城主天守閣の主柱に用いた桂の巨材は、大町村の宗重から岸新兵衛によって切り出されたと伝えられているが、父三郎左衛門が寄進したともいわれる。切り株から成長した柱が現存する。新兵衛は藩命を受け慶安元年(1648)布原台地の開拓、それに伴う用水路作りに貢献した。また、伯耆往来の宿駅に着手し、円通寺の客殿を寄進したといわれている。延享4年(1747)三郎左衛門は年貢米の不足から多額の負債を負い大庄屋を免ぜられた。
祭神は産土荒神で、地元の氏神様として毎年11月に甘酒祭が行われている。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
津山市西田辺地内の鵜ノ羽川と県道が交差する地点で、民家の出入り口の県道脇に立派な灯篭が建立されている。灯篭の碑文内容を要約すると、安政年中(1854~1859)に田原安五郎が発起して津山より香々美中村までを道路改修し、そして、その遺志を継いで息子田原平五郎が明治4年に一宮から人形峠まで道路改修を始めたと刻字されている。
植月家 植月六郎右衛門 久米南条郡一方村 森藩~松平藩
大庄屋まで
植月氏は、美作菅家七党の一つである。家譜によれば、その子孫が宇喜多氏に仕えて一方村を与えられ、神南備山北麓に居を構えた。これが一方村植月氏の祖である。新右衛門が森藩の大庄屋を勤め、その後明治まで続いた。
大庄屋として
植月新右衛門は承応2年(1653)の一方村の「山上り」や、延宝7年(1679)の皿川改修工事による広い新田作りに功績があった。皿川改修には下弓削村大庄屋河原善右衛門とともに尽力した。六郎右衛門は元禄一揆の記録を残し、山中一揆が起ると、120名の人夫を連れ、弓や鉄砲などを携帯して、鎮圧に出動する準備をした。澄江は、慶応2年(1866)長州戦争に郷夫隊総取締として従軍した。