玉琳の地名の元となった玉琳塚(津山市川崎字玉琳)
玉琳(ギョクリン)院智観(チカン)(修験者)の墓である。町名の玉琳も玉琳院の名にちなむ。河内玉琳は諸国を修業した後に美作を訪れ、戸川の宿に住み、鶴山八幡宮を祈念していました。そして、森忠政が入封して城を築き始めたのですが、異変がたびたび発生したため人びとが恐れをなし、神仏に祈るのですが効果がありません。そこで玉琳のことを思い出す人があって、玉琳が「山神安鎮神明納受の祈念」をしたところ八幡宮の八子の地に遷す旨の神勅がありました。
玉琳(ギョクリン)院智観(チカン)(修験者)の墓である。町名の玉琳も玉琳院の名にちなむ。河内玉琳は諸国を修業した後に美作を訪れ、戸川の宿に住み、鶴山八幡宮を祈念していました。そして、森忠政が入封して城を築き始めたのですが、異変がたびたび発生したため人びとが恐れをなし、神仏に祈るのですが効果がありません。そこで玉琳のことを思い出す人があって、玉琳が「山神安鎮神明納受の祈念」をしたところ八幡宮の八子の地に遷す旨の神勅がありました。
瀧神社沿革(取材2014.7.27)
一、由緒
今から約千三百年前の白凰年間 藤原鎌足の孫 武智麿呂が中国地方平定のため御神託を受け紀州熊野権現を勧請し社殿を建てたと伝えられ 爾来北野村東西と近藤村の氏神として崇められてきた
近世美作の国津山城の鬼門の守護神として森公の信仰厚く鳥居や石の宝殿が寄進されている
明治の末頃までは「お瀧参り」とよばれ 作州全域から多くの参拝者があり 旧八月十五日の例祭には 日本原から続く松並木の参道は人の列でにぎわい 売店 見世物が並んだ
大正十二年郷社の格が与えられ また三十三年毎の御開帳祭は今に伝えられている
〔大聖寺の概略〕 山号を恵龍山と称し、今をさかのぼる1260余年前、天平10年(738年)、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩により開山、爾来、山岳仏教の聖地として五院(不動院、中院、奥の院など)十八坊舎(松の坊、池の坊、上の坊、地蔵坊など)の塔堂伽藍(とうどうがらん)を誇り真言密教(宗祖、空海)の根本道場として信仰をあつめ西の高野山と称されました。
しかし天正年間(1578年頃)の戦火で塔堂を消失、現在の本堂不動院、本坊客殿などは、津山城主、森忠政公(森蘭丸の弟)により慶長9年(1604年)に城主祈願所として再建されました。
また、当山は、歴代貫主(住職)が、京都蓮浄院(京都御室御所、塔中寺院)院主職をつとめ御所直轄寺院として高禄受祚の寺格を有しました。(文:別格本山 大聖寺案内より)(2014年6月24日取材)
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龍頭山 善應寺 縁起
天台宗 本寺 滋賀県大津市 比叡山延暦寺。開基/貞観二痍辰年(860)慈覚大師円仁。本尊/聖観世音菩薩 行基作。脇侍/不道明王 毘沙門天。
当山は比叡山延暦寺第四祖慈覚大師が美作の国を御巡教の際、美作一の宮である中山神社にご参籠の折、東北の山頂に紫雲のたなびくのを見て、霊地のある事を知り、深山に分け入られると、にわかに甘露が降り、雲中より蟠龍が、頭を挙げて、大師の登山を歓び迎える様をしたので、山号を龍頭山と名付け大師護持の一寸八分の観音像を本尊の体内に納めて当寺の本尊とし、一字の草堂を建立されました。(善應寺2014.6.29取材)
天平年間に、行基菩薩が開創され、弘法大師も弘仁年間に巡錫されたと伝えられています。昔は五社明神の別当寺として、神社の近くにありましたが、天保5年現在地に移りました。
昭和28年、現在の本堂落成の際、高野山から、作東高野山摩尼院の称号を頂き、爾来檀信徒皆様の篤いご信心によって、山容が整いました。(文:高野山真言宗 美作八十八ヶ所霊場HPより)2014年6月24日取材
2014年7月1日(火)あじさい寺【長法寺】に行って来ました。
阿弥陀如来を本尊とし、脇侍に天台大師、伝教大師をおまつりしている。現在のお堂は弘化2年(1845年)西方にあったものを移し、阿弥陀堂兼客殿として再建す。
明治6年(1873年)津山城取り壊しの際贈られた。本丸御殿の鬼瓦、鯱(しゃち)、紫陽花(あじさい)の絵を描いた襖障子があります。2009年の紫陽花の様子はこちらから、名木百選 長法寺のイチョウ
治部邸
治部家は、文和元年(1353年)に九州日向国(宮崎県)から戦乱を逃れ久米南町山手の地に帰農しました。その後、この地で庄屋となり、その居宅は江戸時代の豪農の面影を伝えるものとなっています。久米南町が平成元年12月に、所有者の治部氏から寄付を受け、この歴史的遺産の保護を図るとともに地域の活性化に役立てるため、農村型リゾートのシンボル施設として修復したものです。久米南町(2014.5.24)
塞の神の長い民間信仰の歴史の過程によって機能は複雑となり、色々な附会された伝承が各地域で受け継がれ、また他の神々と習合され、幸せや金運を授けてく れる神というような現実的な人生の希望を託す信仰にもなっている。岡山県下の塞の神は祠が多く、中北部で、咳、耳、脚の神とされ、塞の神にはその他、縁結 びの神、和合神、性神、道路の神、交通安全の神などさまざまの信仰や形態がある。(2014年5月14日取材)
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建物
遊び心の美術館「古意庵」は、三層の棟が一体と成って構成されています。
嘉永5年新調された土蔵で、構造は木造で結構を組み、モロ木・竹とシュロ縄で小舞をつけ、荒塗りまで厚さ廿糎以上に壁をつけています。
外側は、窓周りや腰等に貼瓦と焼板により風雨による損傷を防ぎ、屋根は本葺となっています。
幻住寺(げんじゅうじ)曹洞宗美作観音霊場第三番
ここは「玄住寺郷土自然保護地域」に昭和50年5月20日岡山県から指定されている所で自然がいっぱいです。この地域は、幻住寺山(標高510m)にある幻住寺を中心とする地域で、全域にわたって急峻な地形を呈し、流紋岩を母岩とする土壌が分布しています。
幻住寺は、後醍醐天皇の命名といわれ、奈良時代に建立されたと伝えられる由緒ある禅宗寺で、作州南部の三大名刹の一つとされています。
寺の背後には、スダジイ、アカガシなどの巨樹が点在する常緑広葉樹を主体として、落葉広葉樹を混交する原植生に近い自然度の高い樹林が形成され、寺院と一帯となって、すぐれた自然環境をとどめています。(文:岡山県看板より)2014年6月8日・9日取材