6/22(日)まで 花、開く 榕菴の植物研究 by 津山洋学資料館

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↑色校正原稿と刊行本較べてみると・・・。色校正原稿に書き込まれた榕菴の修正指示が、刊行された本の図では、きちんと直されていることが分かります。


 今から180年前の1834(天保5)年、日本では最初の本格的な植物学書『植学啓原』(しょくがくけいげん)が刊行されました。
著者は宇田川榕菴(うだがわようあん)。津山藩の藩医(江戸詰)で、西洋の学問を研究する洋学者でした。

 江戸時代の日本には、「本草学」という、薬のもととなる植物や動物を研究する学問があり、榕菴も最初は本草学の研究に打ち込んでいました。しかし、20歳の時、オランダ語の家庭百科事典を読んで、西洋には「植物学」(榕菴は「植学」と表現)という、薬になるかどうかに関係なく植物を研究する学問があることを知ります。

 それから研究を重ね、16年後に刊行したのが『植学啓原』でした。この書によって、日本の植物学研究ははじまったのです。


6/22(日)まで 花、開く 榕菴の植物研究

3月23日(日)から6月22日(日)9時から17時(入館は16時30分まで)休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)津山洋学資料館 企画展示室
入館料:一般/300円 高大生/200円 ☆問い合わせ:0868-23-3324(津山洋学資料館)

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「植物学」との出会い
 蘭学の修業を進めた榕菴は、フランス人ショメールが編さんした家庭百科事典(オランダ語版)を読み、西洋には「植物学」という学問があることを 知りました。
 この時榕菴は20歳、年譜には「『叔氏韻府』(ショメールのこと)を読み、始めて植学あることを知る」と印象的に記されています。
 本草学と違い、植物学は薬になるかどうかに関わらず植物を研究します。榕菴は「その説には得ることが多い」と言って、さっそく弟子たちに講義を 行っています。

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洋学資料館の庭で咲いている花

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榕菴とシーボルト
 1823(文政6)年、出島のオランダ商館付き医師としてシーボルトが来日します。榕菴はさっそく文通を始め、商館長に随行したシーボルトと江 戸ではじめて出会いました。榕菴29歳の年のことです。
 榕菴はシーボルトについて「従遊して益を得ること多し」と言い、シーボルトも榕菴を高く評価して顕微鏡やバスターの『科学の楽しみ』、シュプレ ンゲルの『植物学入門』を贈りました。この出会いは、榕菴の植物研究を大いに発展させました。

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洋学資料館の庭で咲いている花

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榕菴の植物図
 榕菴の植物図は『植学啓原』などの刊本に収録せれたもののほか、内筆で描かれたものも残されています。
その一部は、シーボルトに贈られ、海を越えて現在もオランダやロシアに残されています。
 これらの植物図を見ると、多くは植物の本体と部分、さらに細部が描かれています。こうした植物図は、他の日本人学者の図にはあまり見られませ ん。榕菴が、西洋の植物学書の図を参考にして描いたと考えられています。

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洋学資料館の庭で咲いている花

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『植学啓原』の版権
 『植学啓原』は、1833(天保4)年に版木が完成し、翌年刊行されました。それ以降、明治の初年まで、数回再版されています。
 榕菴の没後、この版木、つまり出版の権利を引き継いだのは、養子となった興斎です。
 明治になると、出版条例が公布され、版権が定められます。これは著作権者の保護を目的としていましたが、実質は取り締まりで、出版には官許が必 要になりました。この条例に基づいて、興斎は版権を願い出たようです。

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洋学資料館の庭で咲いている花

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『植学啓原』の刊行
 1834(天保5)年、36歳になった榕菴は、植物学研究の集大成として『植学啓原』を刊行しました。年譜には「不忝所生(所生[父母]をはず かしめず)」と、この書への誇りの気持ちが記されています。
 『植学啓原』は、植物の分類形態や生理、生化学を初めてまとまった形で紹介しました。また、様々な植物用語を造って意味を定義したことから、日 本で最初の本格的な植物学書と言われています。この書によって、日本の植物学研究は始まったのです。
(文:津山洋学資料館)


(2014年4月19日取材)