新高倉稲荷神社(西今町)
この神社は嘉永元年初春に西今町の人山手屋江原市右衛門が高倉稲荷大明神として建立し祭祀したが、故あって嘉永3年に徳守神社の境内末社として遷祀されました。しかし翌年再び此の地に祠を建て新高倉稲荷神社と号し西今町の守護神として150年の長きにわたり祭祀されています。 例祭...夏祭り 7月28日 秋祭り 10月28日
この神社は嘉永元年初春に西今町の人山手屋江原市右衛門が高倉稲荷大明神として建立し祭祀したが、故あって嘉永3年に徳守神社の境内末社として遷祀されました。しかし翌年再び此の地に祠を建て新高倉稲荷神社と号し西今町の守護神として150年の長きにわたり祭祀されています。 例祭...夏祭り 7月28日 秋祭り 10月28日
この近辺で義人を祀る神社というのは珍しいと思われる。安岡町の義信神社は渡辺藤左衛門義信という義人が祀られている。もと安岡町と茅町は津山の城下町になっていなくて城下町に比して重税に苦しんでいたと云う。元禄の頃安岡町に渡辺藤左衛門義信という浪人がいて町民の為に藩に直訴した処、願いが聞き届けられて城下編入が実現した。しかし、直訴は法度であり、義信は処刑されてしまう。町民は藤左衛門をあわれみ、その義挙を徳とし祠を建て神と崇めた。それが義信神社である。今も安岡町の人々はこの宮をあつく敬い、夏と秋にねんごろに祭祀を行っている。(文:つやま城西まるごとまち自慢より)
幻住寺は、後醍醐天皇の命名といわれ、奈良時代に建立されたと伝えられる由緒ある禅宗寺で、作州南部の三大名刹の一つとされています。 寺の背後には、スダジイ、アカガシなどの巨樹が点在する常緑広葉樹を主体として、落葉広葉樹を混交する原植生に近い自然度の高い樹林が形成され、寺院と一帯となって、すぐれた自然環境をとどめています。(2015.6.1取材)
曹洞宗 夢中山 幻住寺は、後醍醐天皇の命名といわれ、奈良時代に建立されたと伝えられる由緒ある禅宗寺で、作州南部の三大名刹の一つとされています。今年も綺麗に咲いていましたよ。また、境内の中にも沢山のさつきやつつじが咲いていました。(2015年6月1日取材)
(2014年6月8日・9日取材の様子)
倭文(しとり)神社 大字油木北字宮山
古来倭文郷の地主神として祀られた神様で、倭文(しとり)神社と唱えたが、中世志津(しず)大明神又は、七津(しづ)大明神と唱えられ、明治6年油木神社と改称され、更に明治10年に旧称の倭文(しとり)神社に復して今日に及んでいる。
作陽誌には、七津明神とするのは倭文の?(太く荒い糸で織った絹織物)の名の「倭文」は志登利、あるいは志都利と讀むべきものを「都」は「ツ」とも読むので倭文をシズと読んで「七津」の文字を宛てたものだが之は誤りであるとするのである。
高津神社 大字里公文字葉山
祭神は大日霊貴命で、配祀は倉稲魂命・奥津彦命・奥津姫命・軻遇突智神・天目一箇神・天香々背男神・素盞鳴命・大山祇命・月読尊・級長津彦命・級長戸辺命・蛭児命・保食神祭日は、例祭10月17日、祈年祭2月23日、新嘗祭11月14日、挿秧祭5月1日
神号は、文化2年(1805)から「高津大神宮」と唱え、明治維新後「高津神社」となって今日に及んでいる。
久原茂良 1858(安政5)年~1927(昭和2)年
茂良は洪哉の次男として津山で生まれました。最初「木藾」と称しますが、 1884(明治17)年に茂良と改めました。同年、東京大学医学部を卒業し、順天堂病院等で臨床研究を重ねました。1886(明治19)年に帰郷すると、 津山二階町(現・津山市二階町)で医院を開業します。
津山藩医・久原家
久原家に残された「先祖書」によると、久原家の始祖は森家の家臣熊野角右衛門であると伝えられています。角右衛門はその後、久原宗清良政と名を改めました。
医家久原家の初代は宗清の跡を継いだ甫雲良賢です。良賢は1677(延宝5)年に幕府の医官であった西玄甫から「阿蘭陀流外科医術免許状」を授けられ、その後1708(宝永5)年に津山藩に藩医として、30人扶持で召抱えられ、椿高下に屋敷を与えられました。良賢以後、久原家は9代洪哉まで代々津山藩医を勤めることになります。
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消えゆく山下校舎 1962(昭和37)年 ≪岡山県立津山高等女学校、岡山県立津山女子高等学校、岡山県立津山成美高等学校、山下校舎≫
1903(明治36)年の女学校開校以来、戦後の女子高等学校山下校舎と、美作の女子中等教育に大きく貢献したこれらの建物は、椿高下新校舎の完成を以て幕を閉じることとなった。
(資料提供:岡山県立津山高等学校)
今から約80年前(昭和10年頃)の岡山県立津山高等女学校
この地は津山城の外堀の一郭で南東には京橋御門があった由緒深い土地で、建物は昭和7年に完成し、而立館と命名されたが昭和36年同窓会館と改名一棟のみ残されています。