2017年1月1日の岡山城
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての望楼形天守閣で、城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を伝えていました。城主の権威を象徴する書院造りの居間(城主の間)が設けてあり、初期の天守閣の性格を物語っています。昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和41年に再建され、城主の間も復元されています。
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての望楼形天守閣で、城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を伝えていました。城主の権威を象徴する書院造りの居間(城主の間)が設けてあり、初期の天守閣の性格を物語っています。昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和41年に再建され、城主の間も復元されています。
豊国神社 [ほうこくじんじゃ] 国重要文化財
通称:千畳閣[せんじょうかく]
桁行13間約24m 梁間8間約15m 単層本瓦葺入母屋 木造の大経堂
豊臣秀吉公が、千部経の転読供養をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊[あんこくじえけい]に建立を命じましたが、秀吉の死により未完成のまま現在にいたっています。 明治時代に秀吉公と加藤清正公が祀られ、豊国神社となっています。
入母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことができ、軒瓦には金箔が押してあることから完成していれば、さぞや豪華な桃山文化を取り入れた大経堂になっていたと思われます。
また堂内には、大鳥居が明治8年に建替えられた時に使った尺定規があります。
本尊の釈迦如来[しゃかにょらい]・阿難尊者[あなんそんじゃ]・迦葉尊者[かしょうそんじゃ]は、明治維新の神仏分離令のときに大願寺に移されています。
(文:一般社団法人 宮島観光協会HPより抜粋)
出雲街道に沿って大きなお宅があるのでお尋ねしてきました。当主の北平也さんにお尋ねしたら、この北家はおよそ900年前から続いておられるのだそうです。当所北家はここから2kmほど東にあったそうですが、火災に遭い200年前に現在地に移って来られ、その後、約80年前に大修理をなさったそうです。向かって右隣には造り酒屋で北家の分家の北酒蔵があったとのことです。(2016年8月11日撮影)
今年(2016年)も津山地域のお祭りも最終になり、11月3日は阿波八幡神社の花祭り(岡山県の無形民俗文化財)、新野まつり(岡山県重要無形民俗文化財)、中山神社の秋祭り(本殿は国指定重要文化財)、田熊八幡宮の秋祭り(回り舞台が国の重要民俗文化財)とあります。
一昨年(2014年1月5日)に取材した田熊八幡宮を再度組んでみました。また、2015年11月1日(日)には、国指定重要有形民俗文化財「田熊回り舞台」の国指定40周年を記念した芸能・文化発表会が開催されました。(※2011年の特集)
2016年(平成28年)10月17日後醍醐天皇の流刑地隠岐島で恒例の「帝祭」が開催されました。同じ後醍醐天皇をテーマにして、「さら山時代祭り」を開催しているさら山時代祭り実行委員会の面々16名は、昨年時代祭りにご参加いただいた帝祭実行委員長松浦会長へのお返しの意味もこめて、16名の大部隊で隠岐島に降り立ちました。
2年に一度行われる「帝祭」は鏡開き・餅撒きから始まり、子ども神輿や御所車行列、国賀ドント節踊り大会や抽選会、フィナーレは花火大会と盛り沢山の内容で開催されますが、当日は生憎の雨模様でいま一つの盛り上がりでした。
イベントのオープンに先立って行われた今回初回の「後醍醐天皇サミット」には、地元西ノ島町を初め、大山町、琴浦町、津山市等が参加して、賑やかに開催されました。
「隠岐の島」宣言も満場一致で採択され、今後も「後醍醐天皇」をテーマにしたサミットをいき長く継続していくことを、参加者一同で確認しました。
中山神社の宮司さんから「ムクロジ」のとても縁起の良いお話を伺いましたので取材してきました。
なんでも「ムクロジ」はドイツ語で、漢字では中国名の「無患子」と書くことから、子どもが病気をしない、という名前が縁起が良いとされています。今、ダイアモンド☆ユカイさんが歌う「ムクロジの木」が、泣ける歌と注目を集めましたが、ユカイさんは小さいときからこの木を見て育ち、現在はこの木がある公園で子育てをしていらっしゃるそうです。また、来春には中山神社のムクロジの実のお守りが出来上がるそうです。(2016年10月24日撮影)
本樹は、国指定の重要文化財である中山神社の本殿東側に隣接しており、中山神社の社叢の中でも祝木のケヤキ・ムクノキ等と共に代表的なものである。なお、雄木であり実はつかない。
中山神社のイチョウ イチョウ(イチョウ科)・所在地/津山市一宮695・所有者/中山神社・推定樹齢/500年・目通り周囲/4.2m・樹高/25m(文:平成5年 津山地方振興局発行 津山の名木百選より抜粋)(2016年8月11日撮影)
2016年8月15日に、津山市立西小学校校庭でお盆恒例の仏送りがありました。この日は偶然お会いするご家族や、懐かしい人に出会うこともある地区の行事です。また、学校近くには国指定重要文化財に指定された本源禅寺をはじめ多くのお寺が集まっている所です。
西小は、昔津山三校のあった場所に設置された小学校だそうで、校庭の木が歴史を感じさせてくれます。
2016年7月17日に一宮にある中山神社で恒例の夏越祭がありました。
民間では、毎年の犯した罪や穢れを除き去るための除災行事として定着した。6月のものを「夏越の祓」、「名越の祓」(なごしのはらえ)または「夏祓」「夏越神事」「六月祓」などとも呼ばれ、12月のものを「年越の祓」と呼んでいる[9]。拾遺和歌集に「題しらず」「よみ人知らず」として、「水無月のなごしの祓する人はちとせの命のぶというふなり」という歌にも見える。
夏に挙行される意味として、衣服を毎日洗濯する習慣や自由に使える水が少なかった時代、半年に一度、雑菌の繁殖し易い夏を前に新しい物に替える事で、残りの半年を疫病を予防して健康に過ごすようにする意味があったのではと考えられている。またこの時期は多くの地域で梅雨の時期にあたり、祭礼が終わると梅雨明けから猛暑と旱(ひでり)を迎えることになるが、この過酷な時期を乗り越えるための戒めでもあった。(文:ウィキペディアより抜粋)
「美作国万灯会(みまさかのくにまんとうえ)ー333年ぶりに甦るー 翔鶴・悠久・宴・深山 監修 山形楽」が、2016年7月2日(土)午後6時~9時(※雨天順延)が臨済宗妙心寺派 東海山本源寺に於いて執り行われました。
「万灯会」とは、夕方から夜にかけて、数多くの灯明をともして、仏様や御先祖様を祀り、御供養する仏教法要の一つです。今からおよそ1270年前の奈良時代744年(天平16年)に、東大寺の前身の金鐘寺(こんしゅじ)というお寺で、万灯を灯したのが、日本に於ける万灯会の始まりとされています。
津山に於いては、本源寺が森忠政公によって現在の場所に建立された年の慶長12(1607)年、5月3日に忠政公の奥方、お岩の方が亡くなり、本源寺にお祀りされました。
その年のお岩の方の初盆、旧暦の7月14日・15日に、桶屋町・吹屋町から本源寺のお岩の方の墓所まで、万灯が灯されました。そしてその翌年には、吉井川の川向うから墓所まで、津山の町中に灯明が灯されました。現代のように電気のない時代ですから、さぞ美しかった事と思います。