【津山人】宇田川玄真(1769-1834)
宇田川玄真(榛斎)は明和6年(1769)伊勢国(現・三重県)の安岡家に生れる。若いころから、精力的に漢方医学を研究し、江戸に修行に出ます。江戸で玄随に出会い、西洋医学の正確さを諭されたことから、洋学の道に進むことを決意したといわれています。また、玄真は一時期、杉田玄白の婿養子となっていたことでも知られています。
宇田川玄真(榛斎)は明和6年(1769)伊勢国(現・三重県)の安岡家に生れる。若いころから、精力的に漢方医学を研究し、江戸に修行に出ます。江戸で玄随に出会い、西洋医学の正確さを諭されたことから、洋学の道に進むことを決意したといわれています。また、玄真は一時期、杉田玄白の婿養子となっていたことでも知られています。
黒田善子さんはKガレージアートワークス代表の「モラ」作家さんですが、ご主人が津山出身の黒田悦司さんです。善子さんの陰の立役者でもある悦司さんとは、毎年海外旅行を定期的になさっている仲の良いご夫婦です。(黒田悦司さんは、一般社団法人 進化経営学院の代表理事をなさっておられます。)2013年9月29日取材
2013年9月14日(土)~10月27日(日)まで、鏡野町生まれの彫刻家・桜井敏生さん (72歳)、津山生まれでパリ在住の画家・桜井由子さん(42歳)。石彫と油彩というまったく違った素材による二人の初の親子展が棟方志功・柳井道弘記念館 (M&Y記念館)にて行われています。(10月27日(日)迄開催)
宇田川玄随(うだがわげんずい)
宇田川玄随は元々漢方医で、蘭学に対して「西夷之子鴃其舌而左其衽何足以掛歯牙(西洋人はモズのように口を尖らせ、左前の服着た野蛮人で、歯牙にも掛けることはない)」という態度をとっていました。しかし、解体新書翻訳メンバーの一人であった桂川甫周や大槻玄沢から話を聞き、西洋医学に目覚めると、玄白などにも教えを受け、蘭学者となっていったのです。
★1792年(寛政4)年10月19日、玄随が主導し、津山在住の藩医をはじめ、町医者2名が参加して、津山ではじめての解臓(解剖)を行った。
第4回 保田扶佐子美術館 特別展(ポートレートギャクシー)が2013年9月21日(土)~10月6日(日)午前10時~午後5時(期間中は毎日開催)まで開催されます。津山+バルセロナ+東京 ポートレートの異才=蛭田(ヒルタ)有一氏の賛助出品。
※その他、貴重な世界初の実用的写真技法ダゲレオタイプ(銀板写真)をはじめ、写真に関する本なども展示しております。(2013年9月21日取材)※保田扶佐子美術館
「好奇心旺盛な江戸時代最高の科学者」と呼ばれています。
寛政10年(1798)大垣藩医江沢養樹の長男として江戸に生れる。14歳にして江戸蘭学界の大立者 津山藩医宇田川玄真の養子となり、蘭学に志をたてる。津山藩医のかたわら幕府天文台の訳官にも登用され、蘭医シーボルトとも交友をもった。
わが国最初の植物学書「植学啓原」や、わが国最初の化学書「舎密開宗」を著し、「日本近代科学の生みの親」と称される。弘化3年(1846)江戸に没す。(その他の記事)
寄松の米井知博宅の北側の坂道を上ると、道の両側に灯籠が建っている。灯籠には「奉燈 氏子中」、別面に「安政二乙卯年」と記されていて、1855年の建立である。
建立当時には近くに寄松神社があったが、東作誌によると当時から杉森神社(現在の高倉神社)は下高倉村東分と西分の氏神であった。また、この道は若林を越し宮東を経て杉森神社に通ずる道で、東分の上塩を除く各部落からの参道に当たる。このことから、灯籠は杉森神社への奉燈で、下高倉村東分の氏子が西分との境界に近いこの位置に建てたものと考えられる。(文:高倉の歴史と文化財より)
上塩池の北の近平用水(ちかひらようすい)路の土手下に一体の石仏が祀られている。慶長8年(1603)に書かれた善応寺縁起(東作誌)に高倉県の33か所の霊場の一つとして下高倉村石仏の地蔵堂が記されていて、お堂に納められた石のお地蔵さんとして多くの参詣があったものと思われる。水田の構造改善事業のために移設され、昔の位置は定かではない。(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)
岡山湯郷Belleをこよなく愛する、日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)岡山湯郷Belle所属DFの加戸由佳(かどゆうか)選手です。(1990年6月19日生れ)加戸由佳さんは現在、トヨタレンタリース岡山津山駅前店に勤務していらっしゃいます。今回は加戸由佳さんの素顔や岡山湯郷Belleの練習風景を取材させていただきました。
(上記の写真提供:岡山湯郷Belle)2013年5月30日取材
下高倉東公会堂の東真向いの山すそにお大師堂がある。古くからこの場所には苫勝霊場第3番札所の大師堂(本尊 聖観世音・薬師如来・弘法大師)があって、戦前の霊場巡りが盛んな頃は、甘酒などを振る舞い賑わっていた。
平成2年に下高倉東全戸からの浄財によって改築し、有重(ありしげ)にあった苫勝霊場第52番札所の観音堂(本尊 十一面観世音・伝教大師)を合祀した。堂内には二つのお堂の本尊が安置されている。