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取材記事内をタグ「津山人」で検索した結果,69件の記事が見つかりました。

立石家(立石岐について)

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自由民権と産業振興で活躍した立石岐 ~作州発展につくした時代の先覚者~
 幕末から明治時代のはじめにかけては、開国の影響と新政府による近代化への改革で、世の中が大きく変わりつつありました。そのころ作州(美作地域)で、近代産業を発展させようと立ち上がったのは、豪農といわれる人たちでした。明治11年(1878)、立石岐、中島衛、内田饒穂、安黒基たちが、養蚕・製糸業をすすめようと「共之社」を結成しました。さらに彼らは、岡山県議会議員となり、自由民権運動を積極的にすすめました。
 彼らの運動は「豪農民権」といわれていますが、その中心となって活躍したのは、立石岐でした。岐は、国会が開設されると、最初の議員となりました。その後も、中国鉄道の建設や学校教育の推進、キリスト教の伝導などで活躍し、作州の産業・文化の発展に大きな業績を残しました。

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【津山人】 劇作家 山田美那子さん

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2016年9月10日アルネ・津山4階市立文化展示ホールで開催されている劇作家でイラストレーターの山田美那子さん(79)の初の個展みなこワールド「出雲街道むかし絵展」(主催:㈱ガット)の会場を尋ねて来ました。
 山田さんは、津山市生まれで城東地区育ちの生粋の津山っ子で、津山大好きさんでもあります。
文化庁主催の芸術祭の台本を多数執筆されています。また、津山城築城400年記念ミュージカル「石の記憶」で津山市文化功労賞を受賞されるとともに、ベネッセ奨励賞、福武文化奨励賞(現代文化部門)、さらには、くすのき賞を受賞されるなど精力的に活動を続けておられます。

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【津山人】桜の植樹に心血を注いだ福井純一

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桜の植樹 
 鶴山公園は岡山県内で唯一、全国桜名所百選に選ばれている桜の名所である。この桜の植樹に尽力したのが福井純一である。福井家はもと真庭郡久世町の在で、酢の醸造業を営んでいた。天保年間(1830~44)に分家して津山に移り住んだ。純一は明治11年(1878)1月31日、父・周二郎(別名・浪二)の長男として、津山市本町二丁目に生まれた。津山成器小学校から同志社中学に進むが、父が病で倒れたため、中退して帰郷する。

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岡田直也選手の壮行会(リオ五輪男子エアライフル競技)

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いよいよ待ちに待ったオリンピックが始まりますね。津山市でもエアライフル射撃競技 岡田直也選手が出場されます。津山瓦版スタッフも応援しています。
 2016年6月29日(水)津山市役所3階庁義室において、エアライフル射撃競技 岡田直也選手リオデジャネイロオリンピック出場の(2月の報告会に続いて)壮行会がありました。市長から激励の言葉「日頃の成果を発揮して金メダルを取ってくれることを市民も国民も期待しています。」との言葉がありました。続いて、激励金と花束の贈呈があり、それに応えて岡田選手が抱負を語ってくれました。今回はご両親も一緒の壮行会でしたよ。

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2016年7月のイナバ化粧品店

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今回、行くとすぐ「あなた!元気になったわよ!」と一番に言ってくださいました。本当に良かった!
そうでなくちゃ。ママは笑った顔が一番です。
イナバ化粧品店の店内は大勢のお客様で一杯でした。「お店に出て皆さんとお話するのが一番うれしいわ!」と大勢の人達との出会いを嬉しそうに語っておられました。(2016年7月16日)

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【津山人】岡田直也さん(リオデジャネイロ五輪出場を決めた)

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2016年2月16日(火)射撃の男子10mエアライフルでリオデジャネイロ五輪出場を決めた岡田直也選手(射撃男子エアライフル)が、津山市役所で宮地昭範市長を表敬訪問し、五輪出場決定の報告会が行われました。
 日本代表のユニフォームと、五輪出場を決めたインド・ニューデリーで開かれたアジア予選優勝で獲得した金メダルをかけて登場した長身の岡田直也選手に、宮地津山市長は「津山市民の誇りです。精神力が試される競技なので、万全の態勢で悔いのない戦いをしてほしい」と激励したのを受けて、「射撃は幅広い年代の人が取り組める競技。今後も認知度を上げていきたい」と抱負を述べた。

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【津山人】 保田扶佐子さん(抽象画家・版画家)

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保田扶佐子さんの津山高校入学式の記念写真。


★岡山大学時代のエピソード「津山線にはゲーリークーパーがいた。」

  その人は津山線の有名人だった。その頃、岡山にはミシガン大学があったそうで、ミシガン大学生を相手に似顔絵を描いて生活していたゲーリークーパーのそっくりさんで、自分であだ名をゲーリークーパーとつけていたそうです。常に英語の本を持っていて、その人に捕まったら英語で話さないといけなかったそうで皆で捕まらないようにしていたとのこと。昭和40~50年頃までいらっしゃったそうです。



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医療の発展に貢献した久原家(二階町)

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久原茂良 1858(安政5)年~1927(昭和2)年
 茂良は洪哉の次男として津山で生まれました。最初「木藾」と称しますが、 1884(明治17)年に茂良と改めました。同年、東京大学医学部を卒業し、順天堂病院等で臨床研究を重ねました。1886(明治19)年に帰郷すると、 津山二階町(現・津山市二階町)で医院を開業します。

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久原洪哉生誕190周年記念 津山藩医久原家の幕末・明治

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津山藩医・久原家
 久原家に残された「先祖書」によると、久原家の始祖は森家の家臣熊野角右衛門であると伝えられています。角右衛門はその後、久原宗清良政と名を改めました。
 医家久原家の初代は宗清の跡を継いだ甫雲良賢です。良賢は1677(延宝5)年に幕府の医官であった西玄甫から「阿蘭陀流外科医術免許状」を授けられ、その後1708(宝永5)年に津山藩に藩医として、30人扶持で召抱えられ、椿高下に屋敷を与えられました。良賢以後、久原家は9代洪哉まで代々津山藩医を勤めることになります。

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【津山人】箕作秋坪(1825-1886)のエピソード

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【津山人】箕作秋坪(1825-1886)

 箕作秋坪は1825(文政8)年に菊池士郎と多美の二男として備中国下呰部村(あざえむら)に生まれました。13歳で父を亡くしますが、17歳頃から父の旧友・稲垣研嶽(いながきけんがく)の下で漢学を学び、さらに江戸へ出て箕作阮甫(みつくりげんぽ)に弟子入りしました。

 1849(嘉永2)年には、大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入門。この時にはもう箕作家の養子になることが内々に決まっていたようです。翌年、藩に正式に養子として認められ、さらにその翌年、江戸へ戻って阮甫の三女つねと結婚。新進の医師として活動を始めました。この時秋坪は27歳でした。

 翌1852(嘉永5)年には、藩主松平斉民(まつだいらなりたみ)のお目見えもいただきました。

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