立石家(立石岐について)

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自由民権と産業振興で活躍した立石岐 ~作州発展につくした時代の先覚者~
 幕末から明治時代のはじめにかけては、開国の影響と新政府による近代化への改革で、世の中が大きく変わりつつありました。そのころ作州(美作地域)で、近代産業を発展させようと立ち上がったのは、豪農といわれる人たちでした。明治11年(1878)、立石岐、中島衛、内田饒穂、安黒基たちが、養蚕・製糸業をすすめようと「共之社」を結成しました。さらに彼らは、岡山県議会議員となり、自由民権運動を積極的にすすめました。
 彼らの運動は「豪農民権」といわれていますが、その中心となって活躍したのは、立石岐でした。岐は、国会が開設されると、最初の議員となりました。その後も、中国鉄道の建設や学校教育の推進、キリスト教の伝導などで活躍し、作州の産業・文化の発展に大きな業績を残しました。

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 ①混乱していた作州の立て直し
 明治維新を迎えて、社会体制がはげしく変わっていくなかで、作州は、凶作や重税のために、みんな困りきっていました。明治6年(1873)には、徴兵令をきっかけに明治新政府への不満が爆発し、作州の民衆は「血税一揆」(明六一揆)を起こしました。このときは、2万7千人ほどの人が処罰を受け、重い罰金などが課せられました。
 さらに、地域の産業が停滞しているため、生活は向上せず、社会や政治は混乱していたので、改善が必要でした。
 その中心的役割を果たしていたのは、立石岐です。岐は、江戸幕府が倒れようとしていた弘化4年(1847)、船穂村(現倉敷市)の豪農小野家に生れました。慶応2年(1866)、二宮村(津山市)の大庄屋立石正介の養子として、作州の地に迎えられました。
 やがて明治維新を迎え、岐は時代の変化に立ち向かうことになりました。

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 ②共之社の設立と養蚕・蚕糸業の導入
 明治11年(1878)、32歳で二宮村の長となった岐は、安黒基、内田饒穂、中島衛らとともに「国家の資益を興起し、社会の幸福を保全せんと欲す」(この国のもつ財産を大きく成長させて、ここに住むみんなが幸せに暮らせるようしていこう)と、広くよびかけました。
 これに応じて立ちあがった21人が、この年に共之社を設立しました。この結社は、殖産興業と民権の拡張を主な目的としていました。
殖産興業としては、まず、蚕を飼って繭をとる養蚕や繭から絹糸をとる製糸業の導入・普及をはかることにしました。当時は絹製品が輸出品として大きな価値をもっていたので、農村が現金収入を得るための有力な手段でした。
 優れた技術を持っていた群馬や長野などの養蚕業を学びながら、岐らは、共之社の人たちと力をあわせて、二宮に私立養蚕伝習所設立しました。さらに彼らは、明治14年(1881)、二宮で製糸業の経営をはじめました。つづいて明治16年(1883)、美作蚕糸談話会を設け、地域をあげて取り組みました。
 この会の経営は困難の連続でしたが、こうした養蚕・製糸業の取り組みが基盤となって、大正15年(1916)、二宮に「郡是蚕糸・津山分工場」が設立され、たくさんの生糸を生産することができるようになりました。作州の養蚕・製糸業は産業として定着し、そののちも成長を続け、昭和時代初期には最盛期を迎えたのでした。

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 ③自由民権運動と国会開設への働き
 明治9年(1876)作州は、北条県から岡山県になりました。明治12年(1879)岡山県議会が開設されると、共之社に結集する豪農たちは政治に目ざめていきました。この年、共之社から7名の県議が当選し、岐もその一人でした。
 彼らは、一人一人の自由や権利を広めていくために、国会開設を求める自由民権運動を展開していきます。この年、岐や中島衛、井出毛三らも参加して、備前・備中・美作の人々が自由民権運動を盛り上げるために助けあう組織として「両備作三国親睦会」を結成しました。この組織は、全国的な国会開設運動の流れにのり「岡山県両備作三国有志人民国会開設建言書」を作成しました。
 会員たちは、汽車も自動車もないこの時代に、大きな苦労をしながら。岡山県下各地で署名を集めました。
 岡山神社での「国会開設請願代表壮行式」を経て、明治13年(1880)、この建言書は東京へ運ばれ、元老院へ提出されました。
 このような活動は全国的に広まり、国会開設運動は大きく前進し、明治14年(1881)には、「10年後に国会を開設する」という詔勅が出されました。これにより、自由民権運動の目標である「言論・集会の自由」「地租負担の軽減」「国会の開設」などの実現に近づいていきました。
 明治15年(1882)岐たちは、作州の有志とともに「美作自由党」を結成しました。備前・備中の関係者と連携して、自由民権思想を啓発するために、各地を巡りました。また、全国的な自由民権運動の中心にあった板垣退助らと連絡を取りあって活動を続けました。
やがて、明治22年(1889)2月に大日本帝国憲法が発布され、つづいて明治23年(1890)には、第1回衆議院議員選挙がおこなわれました。このとき岐は、多くの人たちの応援を受けて、岡山6区(美作西部)から立候補し、当選しました。その年の秋には、第1回帝国議会が開会され「国会を開設する」という自由民権運動の目標が実を結びました。
そののち岐は、第2回・第4回選挙でも当選し、国会議員として活躍しました。
 そして、国政から引退したのちも、明治33年(1900)から16年間にわたって苫田郡議会議長を務めるなど地方議会で活躍しました。

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④鉄道の開設に貢献
 経済の発展にどうしても必要なのが、交通機関の整備でした。美作地域では長い間、人馬と高瀬舟による運搬に頼ってきていました。近代産業を発展させるためには、もっと多くの物を速く運ぶ必要があり、鉄道の開設が切望されるようになってきました。
 明治25年(1892)に「鉄道施設法」ができたとき、岡山から津山までの路線も計画されたものの、国としての建設は中止されました。そこで、国に頼らないで自分たちの力で「中国鉄道」として建設しようということになり、岐は創立委員の一人として、建設に尽力しました。
 明治28年(1895)「中国鉄道」という会社が設立せれると、岐は取締役として、鉄道経営にあたりました。
 明治31年(1898)に、中国鉄道の岡山から津山停車場(現在の津山口駅)までが開通し、岡山県北の地に汽車が初めて走りました。この鉄道の開通は、備前地域と美作地域の間で、人と物の交流がいちだんと盛んになり、経済の発展に大きく寄与しました。 
 こののち、国鉄作備線(現在のJR姫新線)工事に際して、岐は屋敷地を提供しました。個人の屋敷地門前を汽車が通るという全国にも珍しい例となりました。
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立石家の先祖の墓                   立石岐夫婦のお墓


⑤教育支援とキリスト教伝導の晩年
 岐は、教育活動への支援も惜しみませんでした。明治32年(1899)竹内文による「津山女学校」開校に際して、設立や運営に協力しました。さらに、二宮小学校の建設に際して、私有地を提供しました。
 晩年は、万人への愛を説き、森本慶三たちとキリスト教の伝導に努めました。
 立石家は浄土宗宗祖・法然上人ゆかりの家系といわれ、岐がキリスト教へ改宗することは親戚から強い反対を受けました。しかし、岐は「むしろ自分の改宗は、他力本願を説く法然の志を継ぐものである」と述べたといわれています。それは、人々の幸せと繁栄を願い、自分の信じるところに向かって勇敢に突き進んだ岐の生涯を象徴しているようです。
 昭和4年(1929)岐は、83歳でこの世を去り、立石家墓地に葬られました。岐の人生は、社会情勢が大転換するなかで、その変化の先にあるものを読み抜き、社会の理想像を追い求めて働きつづけた生涯といえます。
(文:『津山市人権尊重の教育推進協議会発行 津山先人のあゆみ~あしたへつなぐ~』より)(2016年6月2日撮影)