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河面 奉納相撲に活躍した頭取・行司の碑

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河面 奉納相撲に活躍した頭取・行司の碑(2012.1.22)
 今日では、相撲と言えば、プロの相撲取りが行う国技館の大相撲を連想しがちであるが、昔は、各地方で素人相撲が盛んであった。幕末から明治~大正・昭和の初年まで、社寺の祭礼などにその境内で行う奉納相撲、社寺や仏像の建立修繕のために金品を募って興業する勧進相撲など、信仰と深いかかわりをもって行われた。この近辺では、すでに文化年代(19世紀初め)に植月の宮相撲は有名であった。祭の当日など相撲の興業があれば、遠近から力士や見物客が境内いっぱいに大勢押しかけた。見物客は、重箱、酒などを持ち込んで盛んに声援したもので、相撲取りは花形的存在であった。
河面のお祭り当日、今でも行われているお宮でも子ども奉納相撲は、こうした伝統を踏まえた祭礼行事といえる。

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河面 上原丘陵に存続の先祖社

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河面 上原丘陵に存続の先祖社(光井家の先祖社境内)2012.1.22
河面地域で、ある老婆と話をしていると、次の旨の話を聞くことができた。
「私ら光井姓を名乗る一族は、上原の先祖の社をお祀りしている。
 年に一度、秋には先祖祭りとして、親類縁者の光井株が皆集まって近長の大夫(神主)に拝んでもらった後、その場所でにぎやかに会食する。神様として"武内」さん"を祀っている。」後日、近くの老人に案内してもらった。上原集落に近い丘陵に、屋敷森か古い塚(古墳)を思わせるこんもりとした林があって、鳥居や境内をもつ先祖社が祀られていることが分かった。
 古代から氏神信仰は、一族で先祖を祀る社をもち、「予祝祭」(よわいまつり)として春、「収穫祭」としての秋にお祭りを行い、一族みんなでの共同飲食をする習わしがあった。(岡山県史古代2)これは、それを今にしてうかがえる氏神信仰の珍しい社である。
 これと似た事例として、作州では、菅家一族の信仰が知られている。
 作州の菅家とは、菅原道真につながる子孫が平安末期に配流されてより、菅原満佐を祖とする武士団を形成し、菅家七流と言われる大きな勢力をもっていた。
奈義の有本を筆頭に、勝央の植月、鷹取、美作の福光、英田の江見、原田、広土など、この後に奈義・勝北の豊田、久米の垪和、作東の安東、英田の渋谷等々も同族となり南北朝から戦国時代にかけて武士団とし名を成した。
 この菅家一族は、先祖神として相撲の神で名高い野見宿禰を祀っていた。
光井家については、「森家以来の大農にして、旧家たり。相伝う、光井氏は当国神楽尾城主田中修理大夫某の子、光井大夫を以って始祖とす。その子孫毛利家に仕ふ。毛利背下の周防国住人光井右京亮の裔(えい)という。」(東作誌)とある。先祖は周防地方(山口県)の同姓の多い光の出自とのことである。市内にある神楽尾城や医王山城は、毛利配下の城であり、光井家は先祖が毛利家としてかかわるだけに、光井一族の信仰が注目される。

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日本の数学【和算(わさん)】にチャレンジ(6年算数)

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日本の数学【和算】
 江戸時代に日本独自の数学が発達し、「和算」とよばれています。
 中国からそろばんが入ってきて、そろばんを使ったわり算のしかたの本が出版されたり、生活の中での問題が作られたり、いろいろな長さや面積を求める問題が作られたりしました。
 そして、人々がくふうをこらした問題を作り、「算額(さんがく)」として神社にかかげることも行われました。
 円周率を12けたまで求めた関孝和(せきたかかず)も、和算の発達に力をつくした人です。また、吉田光由(よしだみつよし)という人が書いた「塵劫記(じんこうき)」という和算の本は、多くの人に読まれました。
 和算のススメ!(和算とは、和算の教科書、算額というもの、世界的な大数学者 関孝和、和算の衰退、再び光が、子どもたちに和算を教える意義:和田陽子)

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広野小学校「松本譲先生頌徳碑」

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(2012年1月9日取材)(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)
広野小 松本譲先生頌徳碑
 広野小学校の校門を入ると、二つの大きな石碑が目につく。大きい方の石碑は、高さ4.2mもある堂々たるものであり、「松本譲先生頌徳碑」とある。広野小学校初代校長松本譲先生をたたえての顕彰碑であり、昭和11年(1936年)に建立されている。当初は上の山ぎわにあったが、新校舎建築によるグラウンド拡張の際、現在地に移された。
 広野小学校は、学制発布後、作州では初期の創立期に相当する明治7年(1874年)に、明知小学校として開校した。当初、場所は、河面の清瀧寺を借りての学校であったが、明治14年には現在の位置に移転し、やがて明知小学校から広野小学校へと校名変更したのは、明治36年(1903年)でzった。今では考えられないことであるが、この間、ずっとこの松本校長先生によって導かれたのであった。なにしろ、松本先生は、明治38年に後進に道を譲るまで、実に30年間も広野小学校一校の校長職であり続けたのである。

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広野小 井上周平先生の頌徳碑

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広野小 井上周平先生の頌徳碑(2012年1月9日・14日)
 広野小学校正門のそばに、松本譲(ゆずる)先生の頌徳碑(しょうとくひ)と並んで井上周平先生の頌徳碑が建てられている。戦後の混乱をようやく抜け出した昭和31年(1956年)に建立された。
 高さ3.6m、近辺では珍しい青石の立派な碑石に、82歳河内貞介謹書とある。裏面の碑文には小原貞次撰文・頼本孟書とある。文字・文は、いずれも広野村の当時ゆかりの教育者であった人達の手によるものである。

 井上周平先生は、慶応2年(1866年)出生、地元福井の出身であり、広野小の前身である明知小学校の卒業生であった。碑文には、大阪府の山本塾にて漢学等を学んだ後、明見・致志(広戸村)の小学校を経て、明治23年(1890年)出身校に出身校に勤務したとある。
 松本譲校長先生退職後の3ヶ年間は、2代目校長役で経営に当たるなど務められ、太正12年(1923年)勇退されるまでの期間、実に33年間、広野小学校の重鎮として多くの学童を育てられた。戦前の広野小学校の校歌も、この井上先生の創作であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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広野小 二宮金次郎像と奉安殿跡

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▲写真提供:広野小学校校長先生
 広野小校門を入っての石碑周辺は、戦前における広野小教育の歴史が、象徴的に凝縮されている感がある。創立期の松本譲先生の碑、尋常小学校時代の井上周平先生の碑、御大典記念(昭和天皇御即位記念)と刻まれた石柱、修身を代表する人物二宮金次郎の像、そして、社こそないが原型をとどめている奉安殿跡などがうかがえるからである。
 広野小の二宮金次郎像は、戦前の修身教育がさかんであった当時に建立された。台座裏面に、昭和9年7月10日橋北関平作とある。「勤倹」(きんけん)と書かれた立派な台座に比べ、塗りがはげてコンクリ部分が剥(む)き出しになっている、不自然に小さな像は、戦時中供出した銅像の代替品ではないかと想像されるが定かではない。

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広野小裏山 小祠に祀られている広野神社

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 広野小学校裏山に小祠に祀られている広野神社(2012.1.15取材)
 広野小学校給食室の裏山に、学校の敷地に接して小さな社があり、広野神社として今も祀られている。ごく最近、広野神社と書かれた真新しい木造の鳥居が建てられ、その存在が明示されるようになった。それまでは、茂みの中に位置していて、近隣の氏子以外には、ほとんどその存在が気づかれにくい状況にあった。
 平成4年、岡山の年配の女性から広野小へ次の要旨の問い合わせがあった。


 「私は、元河面(こうも)出身の者だが、何十年ぶりかで津山を訪れる機会を得た。子どもの時分、病気し吹き出物にも困っていたとき、学校の周りのお宮さんにお参りして大変おかげを受けたのを覚えている。ついてはお礼に参ってみたいので、その場所を教えてほしい。」
その時私は、「学校周辺にはお宮はなく、河面の八幡様か福井の金刀比羅宮(ことひらぐう)ではないか。」と応えたが、私自身不明を恥じる次第となった。
 後で分かったことだが、校長室にある広野小初期の藁(わら)ぶき校舎を描いた絵に、広い参道と鳥居が校舎のそばに描かれている。また、江戸時代、「東作誌」の田熊村上分にも、小祠の祭神の記述が見られ、古くからの存在が裏付けられた。社伝は明らかではないが、社のなかに「広野神社御本殿再建正遷(せいせん)座鎮祀(ざちんし)当社氏子安全斎主宮司 豊田元留 昭和四九年壱月弐拾七日」と銘がある。

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2012年1月のイナバ化粧品店は賑やかです。

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▲2012年1月のイナバ化粧品店内は海の男海上保安官のみなさんの元気がみなぎっていました。
 イナバママは店内のお客様の応対に忙しい中で「今年もよろしくお願いします。」と和やかな笑顔でお話くださいました。イナバママ曰く「この年まで働けて、私は幸せなんだなぁ~と思うようになったんです。今は地区の老人会などに出席して楽しんでいます。」とのこと。その後、神戸から来られた海上保安官の皆様と記念撮影。また、1月22日に来られた店内のお客様と次々に記念撮影に応じられていました。(なんでも海上保安官の皆さんと楽しい会話をなさったそうです。)
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福井 整った石室の土居「火のかま古墳」

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福井 整った石室の土居火のかま古墳 (2012.1.15取材)
 片山・桑田集落から四つ立橋を渡ると、大崎方面と勝央方面に道が別れている。
その福井から勝央町にぬけるゆるやかな坂道(工門勝央線)を数百m上って行くと、右手の道べりに木の茂った小さな墳丘が見られる。これが、土居火のかま古墳であり、別名穴塚と言われてい古墳である。
 墳丘部の東側は、ぽっかり穴が空いており、入口に「史跡土居火のかま古墳指定 広野地区文化財保護委員会」の標識が立てられている。昭和50年代後半に、広野の公民館活動のなかに文化財保護委員会ができ、こうした文化財標識を設置する活動が行われた。
 古墳の中は、大きな石を使って整えた石室が見られ、石室だけから言えば、がっちりとした立派な保存状態の横穴式石室である。この古墳の規模は、周辺が段差のある耕地となっていることから、基底部分はもっと広がっており、おそらくは今に倍する大きさの円墳ではなかったかと思われる。

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福井 新宮城に関わる伝承の真宮神社

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福井 新宮城(しんぐうじょう)に関わる伝承の真宮神社(しんぐうじんじゃ)2012.1.15取材
 福井より大崎に向かう道中、土居の公会堂の周辺は、花畑がありきれいに公園化されている。そこに、真宮神社の立派な石造りの鳥居が見られ、その鳥居には、「明治33年10月」と刻まれている。また、鳥居の側に細長い石に刻んだ歌碑があり、「幾千代の栄を古めて 国安らふ可みの御前に植し常盤木 明治19年9月11日 安藤直清 61才」とある。惜しまれることには、常盤木と詠まれた松は、株だけ残して今は存在していない。
 鳥居をくぐり、広戸川に沿って木立の参道を百数十メートルほど下ると、真宮神社の境内に至る。神社は、新宮山の南山麓の林の中に鎮座し、背後に巨大な岩壁がそそり立っており、一見して古代の磐座を想起させる環境にある。新宮城の築城以前から、新宮山が「神の山」と呼ばれていた所以であろう。

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