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田熊の赤ひげ先生【田熊の医師井上先生の頌徳碑】

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田熊 明治初年恩徳の医師井上先生頌徳之碑
 通常、植月線と呼んでいる道路=主要地方道津山大原線を、河面(こうも)から田熊(たのくま)へ向けて行くと、田熊分に中鉄バス八ヶ原駐車場がある。この付近の向かって道路右側横に、医師井上先生の頌徳碑(しょうとくひ)が、建立されている。
 作州の場合は、幕末から明治の初めにかけて医者は、ほとんどが大阪や京都などへ勉学に赴(おもむき)き、苦労してその資格を得ているが、その割りに報われず、まさに「医は仁術(じんじゅつ)」として、奉仕の生活を余儀なくされた。 

 田熊のある老人の話によると、自分の祖父は医者であったが、家族の者に間違っても、子孫は医者にするなと遺言を残して亡くなったという。その話を要約するならば、懇意にしている農家の嫁さんが、かなりの重い病にかかった。何としても治療を思い、当時、長旅をかえりみずに京都まで良薬を求めて行き、その後も献身的な面倒をみた。やがて、薬石の効があって健康を回復し、共に喜んだのはよいが、治療代の報酬はというと、年の暮れに八ヶ原池で捕れたカモ一羽だけだったそうである。医者をしておれば、身代をつぶすというわけである。この話は、一方の庶民の側からみると、それだけに当時の医師はありがたい存在であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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曹洞宗 澤龍山 少林寺

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曹洞宗  圓通閣 澤龍山少林寺(美作三十三観音十一番札所)(2011.5.4)

開創 1525年(大永5年)
本寺 久米郡美咲町 夢中山幻住寺
開山 大網愚溪大和尚(幻住寺6世)
当山は、小森山圓福寺(中北上1319番地)と称していたが、後醍醐天皇が隠岐島を脱出、船上山の名和長年に身を寄せられた1333年頃兵火によって焼失。
その後180年程そのままになっていたが、1516(永正13)年11月に幻住寺六世大網愚溪大和尚が、当時の岩谷城主大河原弾正の懇請を容れて、後に少林寺末寺となる観音寺となった地(中北上1161番地)に小庵を建立し、山号を山形臥龍に似たるを以て澤龍山とし、1525(大永5)年に「澤龍山小林庵」と称し開堂。
1597(慶長2)年、大河原弾正の三男智麟首座小林修理の修繕を得て、庵から寺に改称「小林寺」とした。
1767(明和4)年頃の中北上村は、相州小田原の大久保藩の領地で西川(現在の美咲町)代官所を設けて領内を支配していた。当山七世物外璿山大和尚が、その西川代官高橋文右衛門の賛助に依り、50余ヶ村民の出役を得て現地に移転し寺名を小から少に改め「少林寺」とした。
本堂・開山堂は、1993(平成5)年再建。本堂内には当山に金龍銀龍が舞う幅3・3mの見事な壁画が一対あり、津山市・山形弘画伯の作品である。
本尊「十一面観世音菩薩」は、岩谷城を築城した山名教清寄進の岩谷山慈悲門寺の本尊であったが、当時(戦国時代)の情勢により開基・大河原彈正が少林寺に移したものと伝えられる。【資料提供:曹洞宗  圓通閣 澤龍山少林寺】

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【2011年】津山市沼、吉井さん宅のイルミネーション

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2011年12月津山市沼の吉井宅のイルミネーション。今年の特徴は大きな水車がまわっています。いつ見ても美しく楽しいイルミネーションです。一昨年のイルミネーションの様子はこちらから
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【2011年】津山市沼のイルミネーションです。

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2011年12月、沼の町内会のイルミネーションです。昨年も綺麗に飾っておられましたよ。その時の様子はこちらでご覧ください。

▲津山市沼の自動車学校すぐ南の沼の一角にある町内会の仲良しさんが、皆で協力して道行く人を楽しませてくださっています。きっかけは、「夫婦二人だけなので夢のある事をしようと、2年ほど前から始めたのですが、皆さんが今年もせんの?と言われて毎年仲の良いご近所同士5軒で同時にやっています。何より子ども達が可愛い!と言ってくれるのが嬉しいです。」。「来られた人に喜んでもらえたら嬉しい!」とお話くださいました。とお話くださいました。(2009年より)

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箕作家の墓所

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箕作家の墓所

 箕作家の墓は、もと市内上之町の浄円寺内にあったが、阮甫が江戸に定住したあとここに移された。阮甫以降の省吾、麟祥など幕臣箕作家の墓所は、初め東京小石川の白山浄土寺にあったが、今は多磨霊園に移されている。秋坪・佳吉など津山箕作家の墓所や、奎吾・元八ら江戸箕作家の墓所ならびに大麓以降の菊池家の墓所は、ともに東京谷中墓地にある。

 箕作家旧宅が国の史跡に指定された昭和50年、宇田川・箕作顕彰会と津山市教育委員会により、解説板と標柱が設置された。しかし、歳月を経てそれらの傷みが激しいため、箕作阮甫の生誕二百周年にあたり、津山洋学資料館友の会が、広く市民の協力をえて整備したものである。(案内板より)
平成11年11月7日

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因幡往来に隣接 山王権現を祀る日吉神社

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日吉神社は聞き伝えによると、滋賀県の日吉大社から持って帰ったと言われています。大国主命の弟をお祀りしているとのことでした。太田町内会の宮総代の下山清さんは「昔は廻り舞台もあったが、終戦後に壊したのではないかと思います。そして、参道脇にはワラ家があって賑やかでした。また、日吉神社はすもうの神様なので境内には土俵があり、よく相撲をしていました。」とお話くださいました。日吉神社には記録も紛失して残っておらず、しかも荒れ放題だったのを下山さん達皆で立て直されたそうです。日吉神社は、川崎太田、玉琳、飯綱、東野介代、野介代東分の各町内会が氏子だそうです。毎年7月13日には「お湯立て」があるそうです。2011年10月16日取材

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田熊八幡宮の廻り舞台

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 重要有形民俗文化財「田熊の舞台保存修理工事報告書/田熊八幡神社」より

竣工 境内全景(正面に舞台、その西側(下手)に花道が拝殿に続く)

zumen2.jpg田熊20004.jpg田熊3005.jpg田熊4006.jpg

 左より舞台・花道・外観・舞台部内部(西から)・奈落部内部(西から)

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 皿回し式廻り舞台(盆を足で蹴って踏みまわす)・回転機構(横から)・回転装置(南からみる)

国の重要有形文化財に指定(昭和50年9月)されている「田熊の舞台」は明治4年(1871)の建築であり、明治・大正・昭和と娯楽の場として利用されて来ましたが、戦後の娯楽指向の変化によってその利用がされず、建築後およそ130年が経過し、傷みが進んで倒壊が危ぶまれる状態でしたが、先祖が残してくれた町内では唯一の文化財であること等、町民の皆様の理解が高まり、特に町外に在住されている田熊出身者の賛同も得られ、最終的には、目標額を超える多額の浄財が寄せられ、平成16年12月に竣工しました。

★2009年の取材はこちらからどうぞ津山国際総合音楽祭

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2011年10月のイナバ化粧品店と川崎八幡だんじり

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2011年10月15日(土)小雨が降る中を川崎八幡宮のだんじりが、子供たちを乗せてイナバ化粧品店の前を勢いよく走っていきました。途中から土砂降りになり急遽コースを変更しておられました。(この日は宵祭り)

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