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箕作家の墓所

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箕作家の墓所

 箕作家の墓は、もと市内上之町の浄円寺内にあったが、阮甫が江戸に定住したあとここに移された。阮甫以降の省吾、麟祥など幕臣箕作家の墓所は、初め東京小石川の白山浄土寺にあったが、今は多磨霊園に移されている。秋坪・佳吉など津山箕作家の墓所や、奎吾・元八ら江戸箕作家の墓所ならびに大麓以降の菊池家の墓所は、ともに東京谷中墓地にある。

 箕作家旧宅が国の史跡に指定された昭和50年、宇田川・箕作顕彰会と津山市教育委員会により、解説板と標柱が設置された。しかし、歳月を経てそれらの傷みが激しいため、箕作阮甫の生誕二百周年にあたり、津山洋学資料館友の会が、広く市民の協力をえて整備したものである。(案内板より)
平成11年11月7日

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 道を聞いたらご親切に連れて行ってくださいました。お陰さまで、とても気持ちの良い一日が過ごせました。

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 途中、鳩の家があります。

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  幕末、ロシアやアメリカとの交渉に活躍し、蕃書調所(東京大学の前身)の教授職(総長格)をつとめた幕末随一の蘭学者、津山藩医箕作阮甫の先祖が眠る墓所である。
 箕作家は近江源氏の一族で、佐々木を姓とし、平安末期から戦国時代の終わりまで、守護・戦国大名として近江一帯を治めていた。

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 初めて箕作を称したのは、佐々木22代高頼の子で、箕作山城主であった定頼である。その子義賢のとき、織田信長方との戦に敗れ、その後、箕作阮甫から五代前の泰秀のとき、大坂冬の陣に再起をかけ、大坂方として参戦したが、これを果たせず小豆島に逃れ、のち美作楢原(今の英田群美作町楢原)に移り住んだ。泰秀の子で兄の泰連は楢原にとどまり、弟の義林が津山藩森家二代藩主長継に仕え、津山箕作家の祖となった。
 この墓所には、義林と妻(神崎氏)、医家初代貞辨(禿翁)、その先妻(松本氏)、後妻(延原氏)、医家二代貞隆(養子恕斎)、その妻(貞辨の娘みき<造酒子>)、医家三代津山藩医貞固(阮甫の父)、その妻(きよ<清子>萬波氏)、医学修業中若死した豊順(阮甫の兄)ら九基の墓をはじめ、銘のない七基の墓がある。これは貞辨に二人、貞隆に三人、貞固に二人の早世した子供がいたので、それらのものと思われる。(案内板より)

 

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