作州忍者鶴山隊 令和3年度総会がありました。

2021-6-nin14.jpg

 作州忍者鶴山隊員ご支援くださっている皆様
 作州忍者鶴山隊令和3年度総会を(創設3年目)中央公民館(大谷)にて6月30日隊員37名とオブザーバー、来賓、マスコミ担当者等42有余名の出席を得て開催させて頂きました。
(現在登録隊員100名余りです。年/隊費納入者のみのカウントです。)
 開会は小西隊員の司会で始まり、来賓あいさつとして津山市観光協会 松岡裕司会長から励のお言葉を頂き、その後、議事に移り畑議長選出し各部門(会計報告・予算・事業報告と計画規約改正)と順調に審議可決され新たな役員体制が発表されました。そして、本年度の事業計画実現の隊員の皆さんには今迄以上のご協力ご尽力を賜りますことをお願いしました。
 ※今期の最重要計画は忍者のふるさと甲賀を訪問し我が町、我が城を築いてくれた甲賀忍者伴一族のルーツを辿るため甲賀研修が最も重要な計画です。
 セレモニーとして総会では本日3名の新入隊員には入隊証が手渡しされ、最後に、藤木副長からの九字護身法は起立し力の込めた誓いが唱えられました。
 そして、当日のお祝い印の「紅白饅頭」が記念品としてお渡しされ総会終了とさせて頂きました。 感謝                 令和3年7月吉日 作州忍者鶴山隊 隊長 克丸

2021-6-nin8.jpg2021-6-nin26.jpg

総会会場                    総会会場でお出迎えする隊長と隊員のみなさん。

2021-6-nin17.jpg2021-6-nin13.jpg

総会会場                    小西隊員の司会で総会が始まりました。

2021-6-nin16.jpg2021-6-nin11.jpg

隊員でもある岡山県会議員の皆さん        総会の様子

2021-6-nin5.jpg2021-6-nin27.jpg

来賓の津山市観光協会 松岡裕司会長の激励。    隊員でもある津山市議会議員の皆さん

2021-6-nin1.jpg2021-6-nin4.jpg

祝電披露                              山田美那子さん
忍者研究の第一人者 三重大学教授 山田雄司様  
 作州忍者鶴山隊令和3年度総会の開催誠におめでとうございます。心から祝福申し上げます。
おそらく日本で最高齢のかつ最強の忍者集団、作州忍者鶴山隊。
 各分野でのエキスパートが集まって次々と新しい取り組みをしている姿はまさに忍者です。
今度は何が飛び出すか楽しみにしています。今後のますますのご活躍を願っています。
                   令和3年6月30日 三重大学 教授 山田雄司

2021-6-nin12.jpg2021-6-nin3.jpg

新入隊員と共に。                湯郷温泉旅館組合様より

2021-6-nin7.jpg2021-6-nin18.jpg

                        忍者の教科書

2021-6-nin10.jpg2021-6-nin22.jpg

藤木副長の九字護身法を起立し力を込めて誓い唱えました。

ban.jpgtsuyamaasahi.jpg

津山城と忍者(甲賀伴一族)
 歴史を辿れば、西暦1582年から(天正10年)あの本能寺の変(信長の側近となっていた森蘭丸ら兄旅立つ)この一大事をいち早く(翌日未明)安土城に知らせたのが甲賀忍者一門である。又、安土城内に居た森忠政母子を救出し甲賀に避難させ匿う事も甲賀忍者、伴右衛門尉惟安(ばん うえもんのじょう これやす)。森忠政は戦国の世を強く生き延び、やがて美作国に入府の際には伴一族を同伴させ美作国に186500石を加量となり藩主となる。

 又、津山城築城の際には伴一族に命じ、良質の石山のある神南備山系の八畳岩より多くの石材を搬出する。此処に忠政公は甲賀衆の守り神「摩利支天尊」を津山城対岸石山寺に建立お祀りしその安全を願った。
そのかいあり伴右衛門尉惟安息子惟利は、甲賀に戻り津山城築城の功績をいかし甲賀水口の辺に津山城成る山城を築き甲賀にても名をのこす。
1579年9月 天正7年   1天正伊賀の乱
1981年9月 天正9年   2次伊賀天正の乱
1582年6月 天正10年   本能寺の変
蘭丸らと本能寺で討死した家族をもつ。


・伴右衛門尉惟安(ばん うえもんのじょう これやす) ・出身/甲賀国
 天正10年6月2日、蘭丸とともに伴家の一族の者も本能寺の戦場の露と消えた。伴正林・伴太郎左衛門討死。
その報は、はや3日には近江国甲賀の伴家にもたらされた。その折、森家においては、森長可は信州川中島にあり、その母・妙向尼と、弟・仙千代は人質として安土にいて(諸説あり)長可の手の届かないところにいた。
 伴惟安は「おふたかたとも、さぞ途方にくれておいでだろう。」と、翌4日には安土に行き妙向尼と仙千代を救いだして甲賀にかくまったのだった。
 更に惟安は、自分の館にこの母子をお移して、伴家の者で番をして、真屋真九郎と可児忠七を小姓としてお供につけた。
 当時13歳の仙千代の趣味はドジョウすくいと蛙釣り。(森兄弟は水遊びが大好きなのだ。)そこで仙千代おつきの小姓2人は「おせん殿、いざ蛙釣りにいきましょう。」など言ったが、小姓の親たちは驚いて「あの方は大名のお子様だけれど、事情があってこちらにおいでなのです、おせん様と申し上げ、とにかく何事も仰せのままになさい!」と叱った。
 一方、長可は苦難の末、信州より金山城に帰ってきた。そして、母と弟が安全な場所にかくまわれているとわかると胸をなでおろした。9月1日には甲賀に迎えをよこして妙向尼と仙千代を金山に帰らせている。
 これの功績がきっかけで、伴惟安・そして伴惟利の父子は翌年より森家に仕えるようになった。とくに目をかけられ、以降、森家の記録に何度も登場する。親切はやっておくものだ。
 伴惟安とその子孫は九州島津攻め、小田原の陣、韮山の城攻め、朝鮮征伐の折の肥前名護屋城在陣、上杉討伐、宇都宮将軍家お供、上田城攻在陣、駿府城普請、江戸城普請、大坂の陣、広島の陣、大阪城普請・・・常に藩主・忠政につき従った。息子の惟利は津山城本丸内に屋敷を与えられ、知行は千石、忠政もちょくちょく屋敷へ出入りしたという。
・本能寺の後、伴家にかくまわれた妙向尼と仙千代は、急なことで夏の御衣服のままであった。伴家の女房たちは越前綿で紬を織って括(く)くし染めにして、母子へ一着づつ差し上げた。仙千代へは紫に根笹の紋を入れて進上したという。この後にこの小袖は妙向尼様より伴新五郎にくだされた。
   ・・・江戸時代に森藩主が伴家に尋ねたところ、どこにあるのかわからなかったらしい。か、、家宝が・・・。
・本能寺にたおれた伴正林・伴太郎左衛門は蘭丸とともに阿弥陀寺に眠る。
   伴 正林の法名:蓮誉正林
   伴 太郎左衛門の法名:高月 宗祐
(写真の一部と文提供:作州忍者鶴山隊 隊長 克丸様、集合写真は大倉敏勝様より)