岡山市(地域別/津山市周辺・岡山県北地域)

旧足守藩侍屋敷遺構(県指定重要文化財)

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 足守藩主木下家は、平氏の出身でもとは杉原と称していました。杉原家定は織田信長の家臣でしたが、妹の「ねね」は、木下籐吉郎(後の羽柴秀吉・豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉の天下人に伴って「北の政所」となりました。このため、ねねの実家が秀吉一族として木下姓を名乗ることを許され、さらに豊臣の称号も与えられました。
 関が原合戦に際して、2万5千石を領有して姫路城主であった木下家定は、北の政所を守護して中立を採り、合戦の後の慶長6年(1601)3月27日に、同じ石高で備中国足守に所領替となりました。ここに足守藩主木下家が始まり、一時中断があったものの、家定の子孫が明治維新まで13代にわたって藩主として、足守陣屋町の整備に尽力しました。

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宇田川玄真の孫弟子、緒方洪庵生誕地(県指定史跡)

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 適塾(てきじゅく)で有名な緒方洪庵(おがたこうあん)は宇田川玄真の孫弟子にあたります。
日本に西洋医学の基礎を築いた緒方洪庵は、足守藩の佐伯惟因の末子で名を章といい、文化七年(1810)この屋敷に生まれた。はじめ、大阪の中天遊について和蘭学を修め、21歳の時江戸に出て坪井信道、宇田川玄真に蘭学を学び、また長崎に下り蘭医ニールマンに学ぶ。天保9年(1838)大阪に蘭学塾を開いたが、集まる門弟3千人と称せられ、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介などもその塾生であった。文久2年(1862)幕府奥医師兼西洋医学所頭取になったが、翌3年6月10日江戸で病没、54歳。この屋敷跡は岡山県史跡の指定されている。岡山県・岡山市(文:現地案内板より)

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高松城址公園(岡山市北区高松)

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高松城の水攻め 
 今から約400年前の天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城に城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3千mに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188haの大湖水ができた城は孤立した。
 6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国事恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。

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JR 津山線 建部駅 駅舎(登録有形文化財)

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 JR津山線建部駅駅舎 明治33(1900)年 (登録有形文化財) 
 中国鉄道(現在のJR津山線)岡山ー津山間が開通したのは明治31年で、県北と県南を結ぶ鉄道としてこれまで重要な役割を果たしてきました。この駅舎は、岡山ー津山間のほぼ真ん中に位置しており、開通の2年後に地元からの要望により建設されました。現在も建設当初の姿をよく残しており、津山線の駅舎として貴重なものです。
 屋根はセメント瓦で葺かれ、壁は下部が板壁、上部は白漆喰塗り、木枠の窓がはめられ、内部も小荷物扱口や窓口カウンターなど古い状態をよく留めています。映画「カンゾー先生」(1998年公開)の撮影にも使用されました。駅舎ホーム側の柱上部に、建設年代を記した小さな標識(建物財産標)が貼り付けてありますので、探してみてください。(文:岡山県文化財保護協会 あなたの街の近代化遺産ガイドブックより抜粋)(2018年3月24日撮影)

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備前国総社宮 岡山市指定文化財(史跡)

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備前国総社 岡山市指定文化財(史跡)
 古代律令制下、平安時代末ごろまでには、ほとんどの国に総社が設けられた。
総社とは、国司(国の長官)が逐一出向いて巡拝すべき各神社が、国内各所に分散して不便であるため、各祭神を国府の近接の一か所に合祀することで、参拝を略式化するために設けられたもので、国府直属の祭祀施設である。
 備前国の総社は、備前国府(推定地)の北西丘陵に位置し、国司所祭の古社128の祭神を集めたものと伝えられる。成立の時期は定かではないが、およそ平安時代と推定される。律令制崩壊後は、氏神としての地域の信仰を集め、中世の神仏習合期、岡山藩による寛文の神社整理(1666~1667)を経て、現在に至っている。
 現在の境内地付近には、惣社の内一、同二、馬場といった字名が残っており、かつては一町四方におよぶ広大な社地が広がっていたと考えられる。
 昭和四十年七月に岡山市指定史跡に指定された。平成28年3月 岡山市教育委員会(文:案内より)
(2018年1月1日撮影)

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