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田熊 木山信仰を継ぐ下木・大町の木山様と牛頭天王

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 広戸川を渡り、大町の集会所のそばを通って東の山に登り、植月の県林業試験場に抜ける山道が通っている。軽四ていどの車ならば上がって行ける山道であるが、その山頂近くの道端に、木山様の鳥居が見えて来る。
 林に囲まれた木山様にふさわしい静かな境内に、二つ御社が配祀され、よく手入れされた神社らしきたたずまいを見せている。
 昭和拾年
木山神社御社再建立 正遷座祭 欽行
 壱月参拾日
 二つ社殿には、昭和10年(1935年)に再建されたことを表わす、次の棟札が納めてある。
 木山氏子下木・大町連中としてこの再建にかかわった住民29名の氏名が、別札に銘記されている。
 さらに、今一つの御社には、国歌安泰・氏子安穏を祈って、「奉再建善覚神社一宇成就」と記された、同じ年代の棟札が納められている。
 木山様を祀る御社内には、明治十年丑(1877年)四月八日の奉納札もあるが、古い棟札として、天保2年(1831年)の再建を記した棟札がある。境内には、安永5年(1776年)と刻んだ古い浄水鉢も置かれている。
 数十年おきの再建を考えるならば、江戸時代半ば以前からの信仰と言えよう。
   天下泰平 天保二辛歳 祭主 金藤豊後守
齋奉再建立木山午頭天王感應一宇成就息 受延命處
 国土安穏 卯八月吉日 藤原正清謹書
2012年9月9日(日)取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)

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田熊 雨乞いが行われた山頂の竜王様

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 田熊分広戸川の東側に小字大町・下木集落があるが、その東側山地の山頂部に龍王様が祀られている。木山様の近くと聞いて訪れたが、海抜200mほどの山頂部は、平坦地ではあるが樹木が茂って道もふさがっており、案内なしには、たどりつけない状況であった。
 地元の婦人でさえ、話は聞いているが、お参りしたこともなく道は知らないと疎遠な様子であった。今や存在がうすれかけているが、かつて龍王様は、農民にとって水田の用水の確保のために欠かせない天の雨をつかさどる大切な神様であった。天候不順でとりわけ田植え時期や夏分に何日も雨が降らない干天が続くと、熱心に龍王様を拝み、やぐらを組んで大火を焚くいわゆる千駄焚き(せんだたき)をして雨乞いを行った。水源の浅い広戸川は、干天続きには水涸れを起こしやすいことから、龍王さまを祀る必要があったと考えられる。
2012年9月9日取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)

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明治の講組文書等を保存の下木お大師様

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 田熊分広戸川の東側山手に、下木(北)と大町(南)の集落がある。それぞれ集会所があるが、この公会堂の中に下木ではお大師様が、大町ではお大師様、お薬師様が祀られている。
 下木の場合、お大師様を祀るお籠り堂が古くなったので、昭和57年、その場所に集会の便利を考えて、集会所に建て直した。大町の場合も同様で、阿弥陀様があった場所へ公会堂を建てており、いわば仏様がもともとの本家であった。
  仏様がこうした位置にあるということは、お大師様なり阿弥陀様が、寄り合いの度に日常的に親しめ、信仰できる便利さを考えてのことであり、昔からの信仰と結び付いた村の暮らしの一端を伺わせるものである。
 とくに、下木の公会堂の中にあるお大師様には、明治期の、四国八十八カ寺納経帳(集印帳)・講連中議定書・毎月講定約書等の関連文書が保存されていて、村の暮らしを考えさせられる貴重なものなので、紹介しておきたい。(2012年9月9日取材)

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五穀寺(旧勝北町大吉)


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五穀寺(大吉) 2012.9.2
 日本原高原を見渡せる高台にある五穀寺は、山号を作本山、院号を豊饒院とする真言宗東寺派の寺院です。
本尊は阿弥陀如来。寺伝によると応永年間(1394~1428)高野山宝性院宥快上人の開基と伝えられます。本寺の住職であった大僧正岩原諦信師(1883~1965)は、高野山大学の講師をつとめたこともあり、わが国の声明(仏教音楽)の権威として知られています。国語学者の金田一春彦氏が寺を訪れ、師の教えを受けました。(神社と寺院より)
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廣戸神社(大吉字平野)

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廣戸神社(大吉字平野) 2012.9.2取材
 「美作神社資料」によれば、宝亀元年(770)、山城国(京都府)男山八幡宮(石清水八幡宮)を廣戸村奥津川字宮谷に勧請し、廣戸八幡宮と唱えました。その後、文治5年(1189)に廣戸村大吉字宮の奈留に社殿を移し、応永5年(1398)大吉字平野に遷座しました。
 祭神は品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・大山祇命・武内宿禰・須勢理比売命・志那津比古命・志那津比売命の7柱の神です。境を接して建てられた廣戸神社と五穀寺の境内は、奈良時代から始まる神仏習合(混淆)の姿をとどめています。
(神社と寺院より)※神社よりいただいた沿革は最後に載せてあります。
祭神:品陀和気命 大山祇命 息長帯命
    武内宿禰 須勢理比賣命 支那津比古命
    支那斗辧命 (大雀命)風神社...
※廣戸神社の宮司さん曰く、風神社は今は自衛隊の基地で着弾場になっているそうです。鳥居の1本が残っているとか。

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福井 庶民に根づいた修験道信仰役行者の碑

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 福井八幡宮の参道入り口の道に面して、高さ1mに近い修験道信仰を物語る古びた石碑がある。修験道とは、山岳信仰を通して山の霊気にふれ、山の行場で心身を鍛え、呪術力を体得して、病気を平癒し禍(わざわい)を除くより現世的御利益を追及する信仰である。
 この道を修める修験者は、いわゆる山伏(やまぶし)と言われ、白装束で金剛杖をつき法螺貝(ほらがい)を吹いて、山野をかけめぐった。彼らは概して情報に明るく薬草などにも博学であったため、民衆に受け入れられ、村民のリーダー的存在として活躍した。
 石碑は、判読が難しくなっているが、次のように刻まれている。
     明治六年癸酉   福井村
(梵字) 大峰役行者大菩薩
     九月九日      講 中
 これは、大和大峰山で修行し悟りを開いた、役行者(えんのぎょうじゃ)をたたえたものである。広く修験者に崇拝されている役行者とは、修験道の開祖の人物である。
2012年6月28日取材(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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楽アートスクール作品展 (夏)2012年7月

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楽アートスクール作品展 テーマ(夏) 鏡野町:ペスタロッチ館 7月22日(日)~8月5日(日)津山瓦版の会員さんでもある「楽アートスクール」さんの作品展があると知りお邪魔しました。あいにくと27日(日)は、皆さんお留守でした。勝手にパチパチ撮ってまいりました。生徒さんの力作を拝見しました。知り合いのお名前を見つけて皆さん頑張っているんだなぁ~と嬉しかったです。

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津山高校創立100周年記念館

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予てから河原先生にお願いしていた「津山高校創立100周年記念館」を取材させていただいた。とても立派な建物ですが、敷地は嘗ては美土路邸(美土路昌一<元朝日新聞・全日空社長、津中5期>)だったそうです。今は生徒集会や講演会、発表会、部活動、同窓会の会議などに使用しているのだそうです。(2012.7.30)
津山高校創立100周年記念館の建設
 記念館の建設は、津山高校100周年記念事業の中心で、開校後の最大事業となった。
記念館の建設地
 100周年記念館は当初、津中30周年記念館と旧格闘技場の跡地に建設する計画でしたが、最終的には岡山県が、1994(平成6)年12月6日に本校向かいの敷地を買収し、建設用地とした。同12月26日には敷地内の旧美土路邸が岡山県に寄贈され、再利用する構想だったが、老朽化のため撤去された。
記念館建設へ
 建設費は、100周年記念事業に寄せられた同窓会員の募金によった。
1996(平成8)年3月25日、津山高等学校創立100周年記念館が着工され、同年8月31日に竣工9月28日に落成式が挙行された。ついで10月1日には岡山県に寄付採納され、同窓会会長から、正面の時計が寄贈されている。
記念館は「100’HALL」と命名された。
(文:岡山県立津山高等学校「津山高校創立100周年記念館の建設」より抜粋)
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2012年8月のイナバ化粧品店の様子

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2012年8月14日(火)のイナバ化粧品店の店内の様子です。この日はお盆ですがイナバ化粧品店内は通常より大勢のお客様とちびっ子達も両親に連れられて来店の様子で賑やかです。イナバママも子供達と握手して楽しそうです。
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