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取材記事内を検索ワード「森忠政」で検索した結果,144件の記事が見つかりました。

森家と三日月藩(佐用町)

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 森家はもともと清和天皇からの流れを汲む氏族といわれ、相模国森郷を領したのち森氏を名乗ったと伝えられています。森家が歴史上に現れるようになるのは16世紀、森可成のころからで、可成はのちに織田信長に仕え美濃国金山を領することになります。
 また森家は著名な人物も多く輩出しており、この中でも先の森可成のほか森長可や森長定(蘭丸)などは特に有名な歴史上の人物としてよく知られています。
 三日月藩森家にはこのような氏族の後裔(こうえい)として森忠政が開いた津山藩森家(現岡山県津山市)を本家とし、その分流として成立します。慶安二(1649)年、後の三日月藩租である森長俊は二代津山藩主森長継の子として生まれ、延宝四(1676)年には藩主森長武に領内の一万五千石を分け与えられ津山新田藩を開きます。
 しかし元禄十(1697)年、本家である津山藩森家が改易となったときに森長俊は播磨三日月の地に移され、ここに三日月藩が始まることになります。
 三日月藩の領地は現在の三日月町、佐用町、上月町、南光町、新宮町、山崎町の一部にまたがり、佐用群内では四十の村、新宮では七の村、穴粟郡では十八の村の計六十五村を数え、石高は津山の頃と同じ一万五千石でした。
 後の三代俊春、四代俊韶のころには、今の岡山県と兵庫県内に四万石ちかくを預かり五万四千四百三十石を有したこともあったようです。
 さて、この長俊の後三日月藩の藩主は二代長記、三代俊春、四代俊韶、五代快温、六代長義、七代長篤、八代長国、九代俊滋と続くことになります。
 藩主の説話もいくつか残っており、初代長俊は長身で鼻筋が高く眼光の鋭い人であったといわれ、いまでも菩提寺(ぼだいじ)である高蔵寺(こうぞうじ)にはその面影を伝える木造が残されています。二代長記は氏神の日岡八幡宮(ひおかはちまんぐう)、菩提寺の高蔵寺の増築を行っています。三代俊春は学問を好み、四代俊韶も能書であったと伝えられ、また五代の快温も学問を好み私金でを投じて藩校廣業館(こうぎょうかん)を設立し、学問・武芸に力を入れたとされます。
 この後三日月藩は九代の俊滋のときには明治維新(めいじいしん)を迎え、さらに明治四年の廃藩置県(はいはんちけん)で藩知事(はんちじ)を免ぜられたことをもって三日月藩九代174年の治世は終わりを告げることとなりました。(文:兵庫県佐用郡三日月町発行『森家一万五千石の陣屋 三日月藩乃井野陣屋跡』より転載)(撮影2023年5月18日・20日)(佐用町許可済み)

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作州忍者「鶴丸隊」令和7年度総会

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 令和7年(2025)2月22日10時~11時津山東公民館会議室に於いて「作州忍者鶴山隊総会」が執り行われました。結成6周年を向かえ名実ともに活動が拡大されてきています。
 「新入隊の方をお迎えしての総会は、令和7年度の活動方針も承認され、また、更に地域の観光振興の一助になれるように、心一つに致しました。今年度も引き続き、ご支援をいただきますよう、よろしくお願い致します。国際忍者学会津山開催、隊員222名を目指して、忍々‼️

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『秋の本源寺伝来書画展』~作州維新文庫共催~

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 2024年10月18日~20日まで、『秋の本源寺伝来書画展』~作州維新文庫共催~(主催:森忠政公報恩会)が、津山市小田中の東海山 本源寺にて開催され、最終日の20日のあわただしい最中に伺ってきました。これだけ多くの作品が所蔵されていることにびっくりしました。まさに宝の宝庫です。
 今回は駆け足で拝見したのですが、次回展示が行われるときにはじっくりと拝見したいと思いました。(2024年10月20日撮影)

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観光庁の特別体験事業「津山城晩餐会」を開催!

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 晴れの国・岡山 森の芸術祭、また、11月16日(土)からの津山もみじまつりに合わせ、公益社団法人津山市観光協会DMOは16、17日、観光庁の「特別体験事業」として採択された補助事業として、津山の歴史や文化を知る講演や花火鑑賞、日本舞踊パフォーマンスなどを楽しむツアー「津山城晩餐会」を開催。両日とも参加者の約半数がドイツ、オーストラリア、ブラジル、フランス、オランダなどの訪日外国人が占めた。
 日本文化研究者のアレックス・カー氏による歴史講話では、戦国武将の概要や津山城の歴史、初代藩主森忠政の津山城築城、森家と松平家の歴史、宇喜多家の紹介などを実施。森蘭丸の悲劇を、創作日本舞踊「佳卓」による演舞と琵琶楽曲で表現した演目などが参加者の関心を引いていた。また、宇喜多家に扮した武将隊も勝鬨を参加者とあげるなど会場は大いに盛り上がった。
 晩餐会では、地元津山の素材をいかしたイタリアン料理が振る舞われた。中でも、地元「つやま和牛」を使用した炭火焼ローストが好評を博した。
 宇喜多家に扮した武将隊も勝鬨を参加者とあげるなど会場は大いに盛り上がった。

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KENKAの世界「山下虔華書画展 」

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 2024年10月27日(日)浄土真宗本願寺派「法雲山 妙願寺」に於いて、書家・篆刻 山下虔華さんの書画展が開催されました。「森・芸」と題し、書画など約30点を本堂、庫裏及び客殿、お茶室等に展示され、訪れる人は魅了されていました。この日は、最終日だったので庫裏などは拝見できなかったのですが、虔華さんに案内いただきながら阿弥陀如来等の作品を拝見しました。
※津山市戸川町にある「法雲山 妙願寺」は、森忠政の母、妙向禅尼によって、天正年中(1573〜91)美濃金山に建立されたお寺です。

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「作州忍者 鶴山隊の陣」結成5周年記念講演

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作州忍者鶴山隊結成5周年記念講演会 作州忍者鶴山隊の『陣』
 2024年5月11日、三重大学人文学部教授 山田 雄司氏をお迎えして貴重な講演会となりました。
たくさんのご後援にも、お支えいただき、おかげさまで300名を超えるご来場の方々で、盛会に開催できましたことを心よりお礼申し上げます。
 ご来場いただいた皆様、早朝より設営準備、何より、実行委員会に度々お集まりいただき、お知恵をくださった隊員のみなさん。当日の準備、リハーサル、タイムスケジュールの確認など、記録を担当してくださった方、イベント紹介してくださった企業さま。中世山城の会の皆さま、何より安心のPAベテランのベルフォーレスタッフの方々にも、大変お世話になりました。感謝の気持ちを伝えるにはまだまだ尽きません。全ての皆さま、盛り上げてくださり、ありがとうございます。
また、ご協賛くださった方々、お友達にお声かけしてくださった方々、心より、この場をお借りしてお礼申し上げますと共に開催のご報告をさせていただきます。
 結成5周年は通過点であります。我々は10周年に向けて、しっかりと気持ちを前に、また、津山の観光振興の一助となれますよう励んでまいりますことをお誓い申し上げて、お礼のご挨拶に替えさせていただきます。
 今後とも、ご交誼賜りますようお願い申し上げます。
                      作州忍者鶴山隊結成5周年記念事業
                                  実行委員長 紘太郎
                                    隊長  克丸

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令和6年 作州忍者 鶴山隊総会

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 2024年(令和6年)2月22日(にんじゃの日)にちなんで毎年行っている「作州忍者 鶴山隊」の第5回総会が津山観光センター二階会議室で行われました。総会議事録に沿って、進行を中島完一議員(現・津山市議会議長)を選出し、各報告のあと新年度の事業計画が発表され、執行部原案の11項目が承認され可決されました。先ずは当面する津山さくらまつりに早速に取り組む予定でいます。

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2024年の福力荒神大祭

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 2024年2月10日~2024年2月12日 マムシよけで知られる福力荒神社(福力)の大祭がありました。旧暦の1月1日~3日に参詣すれば、家族全員が1年間マムシの被害に遭わないと言われています。
 今年は大勢の参拝者で賑わっていました。拝殿前でさい銭を投じ、手を合わせた後は、田畑や家の周りにまくとマムシが寄り付かないという「御浄砂(ごじょうさ)」を買い求め、家の周囲に撒いておくとマムシが寄りつかないともいわれ、現在も続けられています。大祭期間中は、参道に屋台が立ち並び、大勢の参拝者で賑わいます。

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三日月藩租「森長俊の人となり」

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 三日月藩祖森長俊が生まれたのは慶安二年(1649)年九月八日で、津山藩二代藩主森内記長継の第八子(五男)として、作州鶴山城中で誕生しました。


 三日月藩祖の森長俊は非常に人情に厚かった人で、外寛内勇、諸侯の中でも特にすぐれた人材でした。
 長俊は、兄の伯耆守長武によって藩主になることができたので、生涯その恩を忘れず、長俊の邸は目白にありましたが、たびたび長武の関口邸をたづね慰問しました。長武には多くの弟があったが、長武が鉄山と号して関口邸に隠居してからは、皆疎遠になりました。しかし長俊だけはそうでなかったので、長武はその心をほめ、「自分がもしもっと早くに、長俊のこの気持ちを知っていたら五万石を与えたであろうに、惜しいことである」といったといわれています。
 父の内記長継は、隠居してから後、竜口邸から芝邸に移って夫人と同居し、長継の死後、夫人は長清院と名のりました。この人は、長俊には義母にあたります。しかし夫人が長俊を愛すること実子のようで、長俊もたびたび訪れて夫人を崇敬し、夫人は珍しいよい品物があると長俊に与え、夫人に事があるときは、子は多かったが、いつも長俊を特に呼んで相談し、長俊はその芝邸で住居しました。

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津山商工会議所女性会秋の津山城(鶴山公園)散策

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 10月30日(月)親睦移動委員会 秋の津山城散策
 親睦委員 10 名が参加し、「津山観光ボランティアガイドの会」会長 得能良平氏の案内の元に、曇ひとつない秋晴れの津山城址を散策しました。得能氏の心のこもった熱いお話は、壮大な石垣の上にそびえ立つ津山城を想像させてくれ、改めて津山って凄い、もっと知りたいと思った一日でした。(文:津山商工会議所女性会)


「備中櫓」名前の由来
 初代藩主・森忠政は、鳥取藩主・池田備中守長幸(ながよし)に娘・於松を嫁がせました。その娘婿である長幸が津山城を訪れるのを機に建てられたのが備中櫓である。備中守から名付けられました。地名とは関係ありません。備中櫓は人物にちなんで命名された珍しい櫓なのです。発掘調査中、備中櫓の周辺で「揚羽蝶」文様の小さな瓦が出土しています。池田家と館駅のある瓦のようです。忠政は娘婿にちなんだ櫓を建てるにあたって、棟に池田家の由来の「揚羽蝶」文様の瓦を作って使用したようです。(文:現地案内より)(2023年10月30日撮影)(2012年・2017年取材)

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