森家と三日月藩(佐用町)

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 森家はもともと清和天皇からの流れを汲む氏族といわれ、相模国森郷を領したのち森氏を名乗ったと伝えられています。森家が歴史上に現れるようになるのは16世紀、森可成のころからで、可成はのちに織田信長に仕え美濃国金山を領することになります。
 また森家は著名な人物も多く輩出しており、この中でも先の森可成のほか森長可や森長定(蘭丸)などは特に有名な歴史上の人物としてよく知られています。
 三日月藩森家にはこのような氏族の後裔(こうえい)として森忠政が開いた津山藩森家(現岡山県津山市)を本家とし、その分流として成立します。慶安二(1649)年、後の三日月藩租である森長俊は二代津山藩主森長継の子として生まれ、延宝四(1676)年には藩主森長武に領内の一万五千石を分け与えられ津山新田藩を開きます。
 しかし元禄十(1697)年、本家である津山藩森家が改易となったときに森長俊は播磨三日月の地に移され、ここに三日月藩が始まることになります。
 三日月藩の領地は現在の三日月町、佐用町、上月町、南光町、新宮町、山崎町の一部にまたがり、佐用群内では四十の村、新宮では七の村、穴粟郡では十八の村の計六十五村を数え、石高は津山の頃と同じ一万五千石でした。
 後の三代俊春、四代俊韶のころには、今の岡山県と兵庫県内に四万石ちかくを預かり五万四千四百三十石を有したこともあったようです。
 さて、この長俊の後三日月藩の藩主は二代長記、三代俊春、四代俊韶、五代快温、六代長義、七代長篤、八代長国、九代俊滋と続くことになります。
 藩主の説話もいくつか残っており、初代長俊は長身で鼻筋が高く眼光の鋭い人であったといわれ、いまでも菩提寺(ぼだいじ)である高蔵寺(こうぞうじ)にはその面影を伝える木造が残されています。二代長記は氏神の日岡八幡宮(ひおかはちまんぐう)、菩提寺の高蔵寺の増築を行っています。三代俊春は学問を好み、四代俊韶も能書であったと伝えられ、また五代の快温も学問を好み私金でを投じて藩校廣業館(こうぎょうかん)を設立し、学問・武芸に力を入れたとされます。
 この後三日月藩は九代の俊滋のときには明治維新(めいじいしん)を迎え、さらに明治四年の廃藩置県(はいはんちけん)で藩知事(はんちじ)を免ぜられたことをもって三日月藩九代174年の治世は終わりを告げることとなりました。(文:兵庫県佐用郡三日月町発行『森家一万五千石の陣屋 三日月藩乃井野陣屋跡』より転載)(撮影2023年5月18日・20日)(佐用町許可済み)

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初代藩主 森長俊像(高蔵寺蔵)         系図

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陣屋大名について
 乃井野に造られた森家の屋敷は「陣屋(じんや)」と呼ばれます。一般に陣屋とは城を持たない大名の居所のことを指します。また家臣の武家屋敷があるところは「陣屋町(じんやまち)」(地元では「郭内(かくない)」と呼ばれます。
 江戸時代の大名は必ずしも領国に城を持っていたわけではなく、陣屋を居所とした大名もかなりの数に上がります。例えば現在の兵庫県下(播磨・淡路・丹波の一部、摂津の一部)には江戸時代の終わりごろには十八の藩がありましたが、城を持っていたのは七藩で、のこり十一藩の藩主は陣屋大名でした。

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日岡八幡宮

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列祖(れっそ)神社
 乃井野陣屋の隣にある列祖神社に、上から見た陣屋と陣屋町の様子が描かれた一枚の絵図が伝わっています。この絵は「旧三日月藩郭内之図」という題が付けられ、むかしんお様子が具体的に分かる貴重な資料です。この絵図を見ると今の町並みは江戸時代の面影をよくとどめていることがわかります。これは全国的ににも貴重なものと評価されています。(文:現地案内より転載)

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列祖(れっそ)神社の絵図            広業館

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三日月藩乃井野陣屋跡(森家一万五千石の陣屋跡)
 元禄十年(1697)津山藩主森家の改易により、分家の長俊が当地に移封されて三日月藩が始まりました。この陣屋は明治の廃藩置県まで、藩政の中心として機能しました。
 陣屋は、城を持てない大名が藩政を執り行うために建てた藩主屋敷で、その周辺には城下町と同じように武家屋敷や藩校、演舞場、馬場、厩などが配置されました。現在も陣屋跡正面の石垣や物見櫓、庭園遺構、武家屋敷や土塀、陣屋町の町割や水路、三方里山の演舞場跡など陣屋町時代の遺構が残っています。また、近くには日岡八幡神社本殿(三日月町指定文化財)や列祖神社など森家とゆかりの深い遺構もあります。

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軒がわら

三日月藩(別称:乃井野藩)

[藩の概要]

 三日月藩は播磨国作用郡四〇ヶ村、揖西郡(いっさいぐん)七ヶ村、宍粟郡(しそうぐん)十八ヶ村、計六十五ヶ村、一万五〇〇〇石の外様の小藩である。藩主の森家は、延宝四年(1876)藩租森長俊(ながとし)が、津山の森の本家より美作国勝田郡北部三十一ヶ村、石高一万五〇〇〇石の分知を受けたのに始まり、元禄十年(1697)八月二日本家の改易で、十月十九日分家の長俊がこの三日月に移封されたのが起こりである。
 長俊は陣屋を乃井野に営むこととし、家臣に命じて藩士の屋敷割りをさせた。しかし長俊は、同年から翌年にかけて鍛治橋門の警護を命ぜられ、さらに翌々年には仙洞使の饗応(きょうおうやく)に当たり、元禄十二年(1699)六月初めて国入りをした。時に長俊五十一歳であった。乃井野の陣屋町の大半ができ上がったのは翌元禄十三年(1700)である。長俊は長身の偉丈夫で、趣味が広く風流人で、諸侯の中でも優れた人材であった(「森家系図並家乗伝記略」)。
 二代長記(ながのり)は生来猛勇で、山や川の狩・漁を好み、夜眠らず、「森の夜鷹」の異名で知られた(『播陽政実録』)。
 この頃は陣屋町の建設に続いて、鎮守社の日岡八幡宮、菩提寺の高蔵寺の増築が行われた。
 三代俊春(としはる)は学問を好み、深沢君山の『森氏雑話』はこの時になった。
 四代俊韶(としつぐ)も能書で、この俊春、俊韶の時代に、播州で一万石余、作州で四万石余、計五万石余の預地を受けた。
 五代快温(はやあつ)は養子で学問に熱心、この時の寛政七年(1795)私金を投じて藩校広業館を設立、学問・武芸に力を入れた。
 その後、六代長義(ながよし)、七代長篤(ながあつ)、八代長国(ながくに)と養子が続き、それに代々年少で家督を相続、享保、元文、天明、天保と大飢饉が相つぎ、各地で打毀(うちこわし)し、強訴(ごうそ)、百姓一揆が頻発する。
 九代俊滋(とししげ)は最後の藩主で、嘉永元年(1848)十四歳で家督を継いだ。時は幕末で、嘉永六年(1853)にはペリーが来航、二度の長州征伐には山崎や龍野は出兵したが、この藩は外様だったので命令はなく、従軍しなかった。しかし藩では武備の充実、調練場の必要を痛感し、慶応元年(1865)から三年へ足かけ三年、まる二年をかけて、三方里の山上に調練場の大工事を完成、水魚、魚形、尚義の三隊の三〇〇余人に英仏式の洋式訓練を実施している。そして慶応四年(1868)正月三日の鳥羽・伏見の戦の直後の十三日には、藩主自ら三〇〇人の藩士を引きつれ上京、三月二十一日天皇の男山石清水八幡宮での逆賊退治の祈願、続いての幕府親征のための大阪行幸には殿軍として参加した。さらに六月の奥羽征伐には、隊長に令士四、隊士四十四、他を加えて総勢六十八人が参加、戦死者を出している。
 明治二年(1869)六月版籍奉還で俊滋は三日月藩知事、明治四年(1871)七月廃藩置県で三日月藩は廃止、三日月県となり藩知事は罷免、九代百七十四年で三日月藩は終わった。
 以後三日月県は姫路県、播磨県となり、ついで現在の兵庫県となった。(文:『藩史大辞典第5巻近畿遍』[新装版]平成27.12.25発行より抜粋)(撮影:2023年5月18日・20日)(許可済み)