関長治・関政辰墓所(西来寺)

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 関長治は津山藩主森氏の一族(森長継の五男)で、関氏の養子となっている。
 父の森長継は初代津山藩主森忠政の娘の子で外孫である。
忠政は嫡子忠広に先立たれ、外孫である長継を森家の後継ぎとした。長継の実家関氏は森家の家臣で、長継の母は森忠政の娘である。また長継の実父関成次の母は森可成の娘である。

曹洞宗 清瀧山 西来寺 元禄十一年(1698年)
 徳翁良高禅師は、新見藩主関長治に現地を与えられ風木谷にあったと伝えられる西来庵を再興した。禅師は師僧月舟宗胡禅師の遺骨を宇治禅定寺より、開山として迎え自らは二世中興に下った。以降、藩祖関長治、四代長辰の二基を中心とした関家の菩提所となる。(文:現地案内より)

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清瀧山西来寺は、もと西来庵と称し、元禄11年(1698)に良高和尚が長治に賜った現在地に堂塔を建立し、関家の菩提寺とした。

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仁王門

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                        本堂

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三重小塔                    鶴の家紋

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境内                      本堂

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末寺

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新見市指定史跡 昭和五十七年九月七日指定
関長治・関政辰墓所
 新見藩初代藩主・関長治及び四代関政辰の墓所がある清瀧山西来寺は、もと西来庵と称し、元禄十一年(1698)に良高和尚が長治に賜った現在地に堂塔を建立し、関家の菩提寺とした。
 長治は、津山藩主・森長継の五男として明暦三年(1657)に生まれ、元禄十年新見藩初代藩主となる。御殿・家中屋敷などを整備し、現在の新見のまちの基礎を築く。天文三年(1738)卒する。
 政辰は、新見藩三代藩主・関政富の五男として宝暦七年(1757)に生まれ、四歳にして四代藩主となるが、安永三年(1774)わずか十八歳で卒する。
 指定地の墓所は、正面に長治の墓碑、その後方に政辰の墓碑が立ち、それぞれ一対の石灯籠がある。
 新見市教育委員会

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正面に長治の墓碑                墓地から見る新見市街地
新見藩主関長誠公辞世之碑 政富公の長男として、新見に生まる。正嫡でないため政辰公の死後5代藩主となる。時に31才。丸川松陰を招き思誠館学制と藩制の改革に成功した。新見藩中興の祖。文化7年2月11日66才にて江戸に卒す。雲涛院蔓翁公の法諡なり

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後方に政辰の墓碑
新見藩主関政辰公墓:宝暦7年6月3日江戸に生まる。思誠館創立、政富公の正嫡として4才にて4代藩主となり僅か16才にて歿す。

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西来寺裏庭

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日本古来のハスが外来種で埋め尽くされようとしているので、外来種を除いているのだそうです。

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西来寺鐘楼                   六地蔵(2021年9月7日撮影)