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【津山人】中原司氏のガラス彫刻作品展

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 津山市出身、倉敷市在住のガラス造形作家、中原司氏の「ガラス彫刻作品展」が、2024年12月1日〜22日までポート アート&デザイン津山にて開催され、2024年12月11日に伺って来ました。
 ポート アート&デザイン津山には、いつも私たちが普段気軽に目にできない作品展を企画していただいていています。是非、足を運んでみてください。


 中原さんは板ガラスを重ねて接着し、研磨して作品に仕上げていく作風で、彫刻や照明作品など幅広く制作されています。今回展示していただく作品「High tide」はガラスと金属(鉄、ステンレス)の複合作品で、ガラス部分はまるで水のゆらめきを想起するような曲面になっています。板ガラスの青みがかった色も作品の一要素として象徴的な意味合いを持っているように感じます。
 

 ご来館くださった皆様、誠にありがとうございました。
板ガラスを積層した塊を彫刻へと削り、研磨して作品化する手法は、この地域では珍しいために驚かれながらもその美しさに感嘆されるお客様が多くおられ、海底の砂地のような仕上に驚かれたり、遠浅の波の一瞬の景色を閉じ込めたよう表情にうっとりされたりと大変喜ばれた展覧会でした。(文:ポート アート&デザイン津山HP・FBより転載)

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【津山人】ピアニスト 中島結里愛さん

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 2024年3月24日に行われた「10周年記念津山音楽コンクールの上位入賞者披露コンサート」が、音楽文化ホールベルフォーレ津山にて開催されました。
 その会場に史上最年少で「ショパン国際ピアノコンクール in ASIA」プロフェッショナル部門で銀賞を受賞した中島結里愛(ゆりあ)さんを訪ねてきました。
 中島結里愛さんは、現在14歳(岡山県立津山中学校2年生)で、昨年12月28日に横浜みなとみらいホールで行われた第14回ヨーロッパ国際ピアノコンクール in ジャパン特級部門(年齢制限なし)において、金賞(第1位)と、杉谷昭子賞及びグランプリをトリプル受賞されています。

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【津山人】木地師13代 小椋芳之作品展

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2023年11月4日アルネ津山であった「木地師13代 小椋芳之作品展」へ伺ってきました。
 小椋氏は、岡山県重要無形文化財保持者の13代木地師です。丸盆・銘々皿・木地鉢・花台などの作品は、木目が美ししく、長年修行を積まれた伝統の技を感じます。
 また、津山市のHPによれば「小椋芳之氏は、昭和 22(1947)年に津山市鉄砲町で木地師の家系小椋六助の長男として生まれ、父に師事し木地師及び塗師技術を学んだ。小椋家は、代々、鏡野町羽出に居住した千軒木地師であり、芳之氏は、数少ない千軒木地師及び塗師の技術継承者で、高度な技術を有している。」と記されています。
・岡山県指定重要無形文化財保持者
・日本伝統工芸会 正会員
・日本木地師学会 理事

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ミニ企画展 「彫無季ー彫書とその世界ー」

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津山郷土博物館  ミニ企画展 「彫無季ー彫書とその世界ー」令和5年8月5日(土)~9月18日(月)
 津山市出身の彫無季(本名河野省三)は、独学で中国の拓本などから書を学び書と彫刻とが一体となった「彫書」という独特な芸術を創造しました。後進の指導をしながら多くの作品を残され、本市に百点もの作品を寄贈されています。これまでに本館においても展覧会においてご紹介しておりますが、彼が残した彫書や書などの素晴らしさを再認識していただいて、古典的でなおかつ前衛的な彫書の世界をご堪能していただければ幸いです。(文:津山郷土博物館)(2023年8月20日撮影)

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【津山の人物】植原六郎左衛門

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(上記:『津山の人物Ⅱ』平成3年10月17日津山市文化協会発行より)

 植原六郎左衛門は幕末の津山藩士で海防家・水練家として名高いサムライ。古式泳法神伝流の第十世宗師。嘉永元年(1848)津山藩の水練師役となり、嘉永六年(1853)幕命により出府、同藩士はもとより多くの他藩の士にも教授した。その時代から水戸藩尊攘家の人々と交友を深め、安政四年(1857)勤王儒者藤森弘庵は槇原に会うべく来津してもいる。文久三年(1863)幕府より六郎座衛門に大砲製造の命令が下り、以後そのことにあたるも明治元年(1868)十一月、自邸内にて自決した。享年五十三。(上之町4丁目植原六郎左衛門旧宅跡看板より)

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見ごたえある「日原 晃 回顧展」開催中!

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 2022年10月8日(土)~11月6日(日)(10:00am~5:00pm)まで、津山市文化センター展示室にて「日原 晃回顧展」が始まっており、連日多くの方が訪れておられます。
 会場の雰囲気もよく、世界の美術館の一角にいるようで、ゆっくりと拝見できました。この機会に是非訪れて「日原 晃」の世界に浸ってみてはいかがでしょう。そして、いつかこのユニットの努力が実って津山市にも公立の美術館が出来ることを祈っています。

 この回顧展は、市内の私設美術館4館(カンダミュージアム河野美術館M&Y記念館保田扶佐子美術館)が、津山出生の優れた芸術家の作品を地域の文化資産として、後世に伝え、文化都市の礎とするため、公立の美術館を提案するものです。この度、活動の第一弾として、戦後間もなく国内画壇に多くの画家を育て送り出した「日原 晃」の偉業を顕彰する「日原 晃回顧展」を開催しています。

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さん・さん祭り2022 ~明日へ!つながるわたしたち~

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 2022年7月9日(土) 10:00 〜 2022年7月10日(日)アルネ・津山4階の津山市立文化展示ホールで「さん・さん祭り2022」がありました。
 会場内には、手づくりのバッグなど、沢山の素敵な力作が並んでいました。面白かったのは、宝暦時代や江戸時代の女性について調べられたことを分かりやすく解説してあったことです。
 また、図書館前広場の体験コーナー『アロマ発泡バスボム作り』『心のいやしと脳トレ臨床美術』『七夕に願いを』などがあり、短冊に世界平和の祈りを込めて吊るしてきました。

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【津山人】上田順子さん

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 津山市の市街地から北へ約10キロ。吉井川の支流である横野川をさかのぼると、200年の長きにわたって手漉き和紙を作り続けてきた「上田手漉和紙工場」があります。
 その上田家の6代目の岡山県重要無形文化財の上田繁男さんを支えて来られた妻の順子さんです。彼女は趣味で版画や絵画などを制作していますが、城東地区にある「和蘭堂」の壁に飾られた彼女の2枚の版画作品を拝見し、なんと素敵なんだろうと魅せられ、さっそく会いに行きました。
 順子さんの明るく、くったくのない笑顔と素朴な人柄がそのまま版画に映し出されていて益々ファンになってしまいました。
 いつか横野和紙で刷られた版画作品の展示会(自他)を開くのが夢だそうです。(2022年1月24日)

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永礼孝二・日下賢二の木版画

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上記写真は永礼孝二 雪景(海)(制作年不詳)

 津山郷土博物館3階(展示室の一部)で、永礼孝二・日下賢二の木版画展(2022年1月15日(土)~2022年2月13日(日)まで)が開催されています。
 永礼孝二さんの作品がとても好きな私は早速ワクワクしながら訪ねてみました。そんなに多くの作品展示数ではありませんが、拝見すると、心穏やかな気持ちになれる期待通りの作品ばかりでした。多くの方に是非本物を見ていただきたいと思います。


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【津山人】大空を飛んだ田中次郎(海軍中佐)

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 田中次郎 明治39年10月23日東京芝区生れ、昭和60年8月1日没(左の写真は兄田中孝夫と)
 大正2年(次郎が8歳の時)父田中治平が亡くなり、2年後家族は津山に帰って来た。
津山中学校4年終了後、父治平の跡を継ぎ江田島にある海軍兵学校に入り大正15年卒業、海軍航空隊に入り、父と同様に中佐となりましたが、外地で終戦になり2年後に帰還。(奥さんと子供三人は、戦争中は加茂町に疎開していた)その後、奥さんの実家の逗子に移った。


 息子さんの石城さんの著書の中に、ご両親と自分との関りなどで興味のあるところがありましたのでお送りします。
 次郎氏は「男は負け戦のことなぞ、他人に語るものではない。」という態度の方でした。例えば、奥様が夫の自殺を心配された時に「そんなことするものか、我々が日本を再興するのだ。」と。また、娘さんの千里さんには「収容所に居る時、米軍を通して天皇陛下より、負けたからと自殺しないように、必ず日本に帰ってくるようにとのお言葉があった。と父から聞いている。」
 また、本当は飛行機を製作することの方に夢があった息子の石城さんが、防衛大を止めて三菱重工業に就職するつもりでいた時「飛行機に乗れない奴が飛行機など造れるわけがない。」と次郎に言われ、それなら飛行機に乗ろうじゃないかとなって今の道に進むようになったとのこと。
 寡黙な人が本当に言うべき時に言う言葉は万金の重みがある。これが、大正、昭和の親父の姿だったと、懐かしく思いました。
 私のように百姓生れの女性には、もののふ、軍人には縁がなく育ってきましたが、いざというときに、自分の思いでなくて大義のために行動する男の心情のようなものに久しぶりに触れたように思いました。
 結局、田中次郎家では、海軍軍人になるため兵学校に入学した次郎氏が、その当時の日本の戦況の状況で一番必要な飛行機の操縦士となり、その息子も戦後の日本空軍に入り次郎氏の後を継ぎました。また、石城さんの姉千里さんは、内田耕太郎氏(防衛大学校卒・海上自衛隊幹部)と結婚、治平の敬愛する上官東郷元帥ゆかりの海上自衛隊舞鶴地方総監を歴任。治平と同じ海軍の道を全うされたと聞いています。(原田兼子さん談)

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