【津山の人物】植原六郎左衛門

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(上記:『津山の人物Ⅱ』平成3年10月17日津山市文化協会発行より)

 植原六郎左衛門は幕末の津山藩士で海防家・水練家として名高いサムライ。古式泳法神伝流の第十世宗師。嘉永元年(1848)津山藩の水練師役となり、嘉永六年(1853)幕命により出府、同藩士はもとより多くの他藩の士にも教授した。その時代から水戸藩尊攘家の人々と交友を深め、安政四年(1857)勤王儒者藤森弘庵は槇原に会うべく来津してもいる。文久三年(1863)幕府より六郎座衛門に大砲製造の命令が下り、以後そのことにあたるも明治元年(1868)十一月、自邸内にて自決した。享年五十三。(上之町4丁目植原六郎左衛門旧宅跡看板より)

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現在旧宅跡地には上之町二丁目町内会館が建っていて、その側面に案内板があります。

津山でさかんになった神伝流(しんでんりゅう)
 水泳の神伝流というのは、江戸時代の初め、熊本藩に始まった操船法・水馬・渡河などの兵法です。今では泳ぎ方にその形が 伝えられています。
 小豆島が領地に加わり、水練の必要を感じた津山藩は、1820年、正木兵馬ら3名の軍学者を松山藩(愛媛県)に派遣し、松山に伝えられてきた神伝流の手ほどき受けさせました。帰ってきたかれらは、吉井川の明石屋淵を水練場として、藩の子供たちに泳法を教えました。
 その後松山に派遣された植原六郎左衛門(うえはらろくろうざえもん)が免許皆伝をうけ、指導者の中心となると、各地から津山に学びにくるようになりました。江戸でも水練場を開いて教えたので、神伝流は全国に広がっていきました。
(文:津山市教育委員会発行『わたしたちの津山の歴史』より転載)

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上之町4丁目にある現在の看板と跡地(2023年10月29日撮影)


姥ヶ谷の大砲製造所

 幕末の緊迫した空気の中で、津山藩士植原六郎左衛門は幕府から大砲製造を命ぜられ、大谷村と横山村の境に大砲製造所を設置しました。そこは、姥ヶ谷と呼ばれる小さな谷で、植原は諸職人を集めて幕府の大砲を製造したのでした。
 植原六郎左衛門は、神伝流の宗師として活躍した人ですが、砲術にも優れており、そこに幕府が目を付けたのです。文久3年(1863)5月5日、「大砲製造方御雇」を幕府から命ぜられ、幕府のために大砲を製造することになったのでした。
 翌元治元年(1864)3月3日、植原は藩に対して大砲製造場としていろいろと考えたところ、横山村姥ヶ谷が吉井川の川筋にも近く万事便利であると提案しています。また同時に図面を添えて、吉井川に架かる今津屋橋から製造場までの道筋の普請も提言しています。その図面によれば、資材や大砲の運送用には幅一間ほどの道を考えていました。
 藩の方で植原の提案を検討したところ、とくに問題はないが、その場所が御林山からの材木の切り出し口であり、また茸の御留山への入口に当たっているなどの点が指摘されました。しかし、これらの問題は大きな障害ではないとして姥ヶ谷に決定され、用地を購入することとなりました。
 そこで、必要な用地の面積や経費について、植原の提案に基づいて作目付が取り調べたところ、横山村と大谷村で二反六畝十八歩の田畑と、大谷村でいったん五畝二十七歩の町作分の畑が買い入れ対象となりました。ただ、町作分はすでに藩の上がり地になっていたので、横山村と大谷村の土地が実際の購入地となって、その地代が銀札で三貫四百五十六匁となりました。
 植原の考えた絵図面から知られる大砲製造場は、小さな谷の入り口付近に設けられた鋳込場を中心にして、鍛冶職、大工職、吹職などの仕事場、あるいは物置、役所などの建物が鋳込場を囲むように配置されていました。また、鋳込場の横には火災に備えて大きな水溜が設けられていました。
 幕府の大砲を津山で製造することになったのは、津山は山国であるから燃料費も安く、また人件費も抑えることができるだろうとの見込みだったのですが、実際には諸物価の高騰や、大阪からの資材運送費がかさんで、結局は見込みどおりにはなりませんでした。また、幕府からの資金が滞ることも多く、運営上の問題を抱えていました。
 大砲製造場は、慶應四年(1868)には操業を停止してしまいました。そのため、多額の調達金を差し出していた御用達商人8人は連名で資材や建物の処分を願い出ました。その中では、諸職人の賃金や買い物代金にかなりの未払いがあったことが記されています。こうした状況の中で、結局残っていた材料や建物などは負債の償還に充てられることになりました。